2011年10月5日水曜日

新しい感性のロック・バンドAin Figremin のCD,全国リリース。おめでとう!

どこから書きはじめようか,ととまどってしまうほどに,いま,わたしのこころは浮き立っています。
が,なによりも,まずは,Guitar & Vocal のMii君にこころからの「おめでとう」のことばを贈りたい,と思います。ほんとうは花束も一緒に。

もっと言ってしまえば,Mii君などという白々しい呼び方ではなくて,まだ幼い子どものころから呼びなれてきた「You〇〇」と声をかけたいところです。しかし,いまは,ひとりのロック歌手としてMiiを名乗っているのですから,ここで本名を書くことは控えておくのがマナーというものだ,と自分に言い聞かせています。

それにしても,CDの全国リリース,おめでとう!
これで,また,一つ階段を上がったね。

去年暮れの幕張メッセのステージには行かれなかったけれども,ことしの5月7日の渋谷のライブで,初めて君のステージに立ち合うことができて,とても感動しました。そして,そのあとの短い時間だったけれども,母上と一緒に歓談できたことが,さらに強い印象となって残っています。あのときも思ったことですが,君のバンドはこれからもっともっとうまくなる,と確信していました。

あれからちょうど5カ月。今日,君のCDを聴いて(じつは,2回,くり返して聴きました),びっくり仰天しました。5カ月前のあのステージとは比べものにならないほどのレベル・アップに。もちろん,ステージのライブとCDに録音されたものとを直に比較することはナンセンスかもしれません。ステージにはステージの迫力が視覚も音量もふくめて満点だし,CDには余分なノイズを除去した透明感が拡がっていて,ひとりこころ静かに聴くには適しています。

それにしても,歌唱力が抜群によくなった,とまあ偉そうに言わせてもらいます。この調子でいくと,どこまでうまくなるのだろうか,とこれまた欲張りな期待感を抱いてしまいます。そして,CDだからこそよく聞き取れたのでしょうが,歌詞(Lyrics)がとてもいい。なによりも,うそがない。素直な気持がそのまま歌詞のことばとなって表出している,と思いました。たとえば,Othelloの冒頭にでてくる「剃刀」などということばを聞き取ったときの瞬間には鳥肌が立ちました。「アッ」と息を飲みながらそのあとの歌詞に耳を傾けました。二度目を聴きたくなったのは,歌詞を読みながらバンド全体の音を感じたいと思ったからです。

すると,面白い発見もありました。「You (and Me)」,というタイトル。このタイトルは,ひょっとしたら「You〇〇 Mii」と言っているのかな,と。もし,そうだとしたら,なんと洒脱なユーモアなんだろう,と。そして,この曲の歌詞もなかなか意味深長なところがあって,想像力を掻き立ててくれます。しかも,ほのかな未来への曙光をみるようで,わたしはとても気に入りました。

それから,演奏もふくめて曲全体が,5月のときの印象とはかなり違ったものに聴こえました。かなり,手を加えて曲そのものをブラッシュ・アップしたのかな,それとも演奏のテクニックが上がったということでしょうか。聴き手のこころを開かせる,そして,素直に耳を傾けさせる,そんな「力」がバンド全体に生まれてきたように感じました。

「シュプレヒコール」の最後の歌唱(せり上がり方),「羊水」のほんのわずかに聴こえてくるバック・コーラス,「ライ麦畑で撃ち抜いて」(これはたぶん初耳)の「当事者は誰だ」という呼びかけ,などなど,いいなぁ,と思いながら聴かせてもらいました。

ついでに,もう一つ。
君は絵も描けるとは知りませんでした。なかなかの腕前ではないですか。これからのCDには,大いにこの絵の力量も発揮してください。絵の描ける人はみんな写真もうまい。鬼に金棒です。歌詞,曲,絵,写真,あらゆる方法を用いて「Miiワールド」を広げていってください。これからの無限の可能性をこころから楽しみにしています。

そのキー・ワードが「Ain Figremin 」と言ったらいいのでしょうか。
この,一見したところドイツ語にみえるバンド名。「アイン・フィグレミン」と発音してみると,いかにもドイツ語風。しかし,ドイツ語とはなんの関係もない,しかも,何語でもない,このバンド名。ここに君の思いのすべてが籠められているように,わたしは受け止めました。

なぜなら,いかなる既成の言語にもからめ捕られることのない自由な時空間に遊ぶこと,これが君の根本にあるコンセプト,と感じたからです。既成の言語とは,別の言い方をすれば,ドイツ語なり,英語なり,日本語なり,といった言語のことで,それらによって構築される「権力」から自由でありたい,ということ。もっと言いかえれば,既成の制度や組織や法律はもとより,既成の倫理や風俗習慣や宗教からも自由でありたい,ということ。すなわち,Ain Figremin とは,この世に存在しない架空の時空間,あるいは概念を追究するバンドではないか,と。ありそうでない,なさそうである,その境界領域に新しいなにかを見出そうとしているのではないか,と。ちょうど,それはひところ流行した「わたくし探し」にも似ています。結局,「わたし」などというものは,あるようでいてない,ないようでいてある,そういうところに還元されていく存在でしかない,というわけです。

こんなことを書きながら,わたはいま,ハイデガーを思い描き,ニーチェのことばを思い浮かべ,そして,バタイユの世界に思いを馳せています。それは,同時に,道元や西田幾多郎の世界にも通底する世界でもあります。最後には,わたしは『般若心経』の説く「無」や「空」の世界に行きついてしまいます。「Ain Figremin」というバンド名を眺めながら,これはわたしの勝手な想像の域をでませんが・・・・。

まあ,こんなことを,渋谷のライブのあとで約束したように,一献傾けながら,ゆっくりと話をしましょう。もはや,立派な大人として成長した君と,1対1の「差し」で,とことん語り合いたいと思います。その日が,いっときも早く訪れますように,いまから祈っています。

それにても,まずは,「おめでとう!」
そして,「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」ということばも贈ります。「稲」には,じつは,もっともっと多くの含意が籠められています。

今日(5日)が,このCDの発売日,と聞いています。
わたしは,これから3回目,4回目の再生を聴きながら,ひとりで鷺沼の事務所で祝杯を挙げることにします。その前に,わたしの大好きな料理をこしらえて・・・。
「乾杯!」「〇〇すけ!」

0 件のコメント: