二日つづきの雨が上がった今朝は,真っ青な空がひろがり,ああ,秋がきたなぁ,としみじみと思う。そして,もう,かなり前から金木犀の香りがあちこちから漂ってきて,鷺沼の事務所に通うのが楽しい。鷺沼は植木の里と呼ばれ,住宅地の植栽もじつにみごとだ。四季折々に花を鑑賞させてもらっている。
つい,この間まで暑いと言っていたのに,ここしばらくは寒いと言い,今日はまた晴れ上がって気温はぐんぐんあがっている。秋の空のはじまりである。暑かったり,寒かったり,毎年くり返しているのに,いつも新鮮に感じるのが不思議。だから,毎年,秋はいいなぁ,とつぶやきながら金木犀の香りがすると立ち止まる。
いつもの,毎年やってくる秋の到来である。なのに,ことしはこころが晴れません。ずっしりと重い。この透き通った青空もまた,微量とはいえ放射能に汚染されているのか,と思うと。
新聞などの世論調査では,80%以上の国民が脱原発を望み,代替エネルギーの確保に舵を切るべきだと言っているのに,どの政党もこの民意を受けた具体的な政治的展望を描こうとはしない。政治家はいったいなにを考えているのか。みんな「ゆでカエル」になってしまって,身動きできなくなってしまっているらしい。こんど選挙があれば,間違いなく「踏み絵」を踏まされることは明らかなのに・・・・。それでも,なんとかなる,と国民を甘くみている。
とうとう先取りの名手・中沢新一が「緑の党」の構想をぶち上げた。まさに絶妙なタイミングである。ほんとうなら諸手をあげて後押しをしたいところだが,なんとなく二の足を踏んでしまう。なぜなら,過去のかれの足跡をたどればわかること。わたしは,いっとき,中沢新一の追っかけと言われるほどに入れ込んで,かれの本を読み込んでいた時代がある。しかし,ある事件をきっかけに,そして,その後の言動などをとおして少しずつこころが離れてしまった。
もう少し,この人なら,という人が立ち上がってくれないものか,と最近になって思いめぐらせている。たとえば,宇沢弘文さん,とか。いささかご高齢なので無理にとはいえないが,このレベルの人が立ち上がってくれないものか,と。そして,そういう人を支える優秀なブレーンが結集できないものか,と。
あるいは乱立してもいい。山本太郎君のような人も,もっともっと声を大にして活動してほしいと願う。若手は若手でのろしを挙げてほしい。小さな,ささやかな草の根の活動でもいい。もっともっと,いろいろのネットワークができてくることを願う。
じつは,すでに,相当の活動が展開しているやに聞く。それをメディアが見て見ぬふりをしているだけだ,とも。それほどに原子ムラの圧政が浸透しているのだ,とも。
だとしたら,いつか,かならずこの鬱屈したエネルギーは姿・形を変えて立ち現れることになろう。デリダのいう「亡霊」はかならず,ひょっこりと顔を出す。
リビアを筆頭にエジプトその他に飛び火した民衆革命のように,鬱屈したエネルギーはいつか必ず噴火する。アメリカが,「想定外」なところから自己崩壊のきざしをみせはじめている。ウォール街という,まさに,こんにちの世界の狂気を導いている中心に,民衆の矛先は向けられている。そして,全米の地方都市にまで飛び火している。
ようやく人びとは問題の根源に気づき,行動に移しはじめた,ということなのだろう。
その根源の問題とは,「金儲けと人の命」とどちらが大事なのか,というきわめて単純なことだ。日本の国民もようやく「経済」よりも「人の命」の方が大事だ,と気づきはじめた。
言ってしまえば,こんなことはだれだってわかっている。にもかかわらず,それを無視しようとする。評論家と称する人びとの多くもまた,そういう類の人種だ。それに学者先生まで便乗して,自分の懐を温めることに走る。情けないかぎりでだ。それにまた,多くの国民が騙されていく。この悪循環の真っ只中にいまわたしたちは置かれている。
この悪循環からの「離脱と移動」が,いま,わたしたち一人ひとりに求められている。しかし,この課題を達成するのは容易なことではない。
秋の青空に浮かぶ雲を眺めながら,そして,金木犀の香りを嗅ぎながら,いっときの心地よさを感じながらも,わたしのこころは晴れません。
さて,なにから始めるとしようか。
「21世紀スポーツ文化研究所」(「ISC・21」)の活動の柱の一つとして。
つい,この間まで暑いと言っていたのに,ここしばらくは寒いと言い,今日はまた晴れ上がって気温はぐんぐんあがっている。秋の空のはじまりである。暑かったり,寒かったり,毎年くり返しているのに,いつも新鮮に感じるのが不思議。だから,毎年,秋はいいなぁ,とつぶやきながら金木犀の香りがすると立ち止まる。
いつもの,毎年やってくる秋の到来である。なのに,ことしはこころが晴れません。ずっしりと重い。この透き通った青空もまた,微量とはいえ放射能に汚染されているのか,と思うと。
新聞などの世論調査では,80%以上の国民が脱原発を望み,代替エネルギーの確保に舵を切るべきだと言っているのに,どの政党もこの民意を受けた具体的な政治的展望を描こうとはしない。政治家はいったいなにを考えているのか。みんな「ゆでカエル」になってしまって,身動きできなくなってしまっているらしい。こんど選挙があれば,間違いなく「踏み絵」を踏まされることは明らかなのに・・・・。それでも,なんとかなる,と国民を甘くみている。
とうとう先取りの名手・中沢新一が「緑の党」の構想をぶち上げた。まさに絶妙なタイミングである。ほんとうなら諸手をあげて後押しをしたいところだが,なんとなく二の足を踏んでしまう。なぜなら,過去のかれの足跡をたどればわかること。わたしは,いっとき,中沢新一の追っかけと言われるほどに入れ込んで,かれの本を読み込んでいた時代がある。しかし,ある事件をきっかけに,そして,その後の言動などをとおして少しずつこころが離れてしまった。
もう少し,この人なら,という人が立ち上がってくれないものか,と最近になって思いめぐらせている。たとえば,宇沢弘文さん,とか。いささかご高齢なので無理にとはいえないが,このレベルの人が立ち上がってくれないものか,と。そして,そういう人を支える優秀なブレーンが結集できないものか,と。
あるいは乱立してもいい。山本太郎君のような人も,もっともっと声を大にして活動してほしいと願う。若手は若手でのろしを挙げてほしい。小さな,ささやかな草の根の活動でもいい。もっともっと,いろいろのネットワークができてくることを願う。
じつは,すでに,相当の活動が展開しているやに聞く。それをメディアが見て見ぬふりをしているだけだ,とも。それほどに原子ムラの圧政が浸透しているのだ,とも。
だとしたら,いつか,かならずこの鬱屈したエネルギーは姿・形を変えて立ち現れることになろう。デリダのいう「亡霊」はかならず,ひょっこりと顔を出す。
リビアを筆頭にエジプトその他に飛び火した民衆革命のように,鬱屈したエネルギーはいつか必ず噴火する。アメリカが,「想定外」なところから自己崩壊のきざしをみせはじめている。ウォール街という,まさに,こんにちの世界の狂気を導いている中心に,民衆の矛先は向けられている。そして,全米の地方都市にまで飛び火している。
ようやく人びとは問題の根源に気づき,行動に移しはじめた,ということなのだろう。
その根源の問題とは,「金儲けと人の命」とどちらが大事なのか,というきわめて単純なことだ。日本の国民もようやく「経済」よりも「人の命」の方が大事だ,と気づきはじめた。
言ってしまえば,こんなことはだれだってわかっている。にもかかわらず,それを無視しようとする。評論家と称する人びとの多くもまた,そういう類の人種だ。それに学者先生まで便乗して,自分の懐を温めることに走る。情けないかぎりでだ。それにまた,多くの国民が騙されていく。この悪循環の真っ只中にいまわたしたちは置かれている。
この悪循環からの「離脱と移動」が,いま,わたしたち一人ひとりに求められている。しかし,この課題を達成するのは容易なことではない。
秋の青空に浮かぶ雲を眺めながら,そして,金木犀の香りを嗅ぎながら,いっときの心地よさを感じながらも,わたしのこころは晴れません。
さて,なにから始めるとしようか。
「21世紀スポーツ文化研究所」(「ISC・21」)の活動の柱の一つとして。
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