2011年10月17日月曜日

『週刊読書人』の三井悦子の書評が素晴らしい。

『週刊読書人』の最新号に三井悦子の書評が掲載されている。そして,ひときわ異彩を放っている。わたしには書けないレベルの書評である。取り上げた本は,笠井叡著『カラダという書物』(りぶるどるしおる,2011年6月刊)。わたしも,刊行直後に送られてきて読み(短い書評を頼まれていたので),このブログの8月29日にも,その感想を記した。だから,三井悦子の,この本を読解するまなざしの鋭さを,かなり深いところで受け止めることができた,と思っている。だから,できることなら,笠井叡(あきら)の本の読解をめぐって,とことん議論をしてみたいという衝動に駆られる。

三井悦子は,わたしの記憶では,藤原書店の『環』が企画した「竹内敏晴特集」(2010年秋号)に寄せた論考が,おそらく一般誌へのデビューだった。この論考がとても気配りのきいた読みごたえのある内容だったので,かなり多くの人びとの注目を集めたと思う。それもそのはずで,三井は竹内敏晴の世界に長い間,寄り添うようにして分け入り,その思考を深めていた。いわゆる「竹内レッスン」の本質はなにかを追求。そして,「じかに触れる」というレッスンの「じか」とはなにかにしつこくこだわった。そのエキスが,この特集号で披瀝された。

たぶん,この論考がきっかけとなり,その後,まもなく『週刊読書人』から竹内敏晴の『レッスンする人』(〇〇社,2010年)の書評を依頼された。これが『週刊読書人』への三井悦子のデビューである。竹内敏晴論は三井悦子にとっては自家薬籠中のテーマである。このときも,わたしは感動した。やはり,長い年月をかけて「竹内レッスン」を受け,しかも,ドイツ・レッスンにまで付き添い,熟成してきた思考は,みごとな味と香りを運んでくるものだ,と。

このときの『週刊読書人』でのみごとな書評の評価はかならずつぎに繋がる,とわたしは考えていた。それが,こんどの笠井叡の本の書評である。竹内敏晴の「身体論」がしっかりと咀嚼され,血となり,肉となっているので,笠井の本に挑んでもその軸はぶれない。しかも,緻密に,そして,繊細に笠井の意図するところを読みとり,みごとな「批評」を展開している。あの,わずかしかないスペースの中で。

一般に,ダンサーの書く文章には一種独特の境涯が盛り込まれている。大野一雄にしても,土方巽にしても,みずからのからだとこころで感じ取ったもの以外は信じようとはしない。そして,とことん,自分の世界に分け入っていく。その点でも,笠井叡はまったく同じである。それもそのはずで,笠井がまだ若い学生時代に,大野一雄に師事し,土方巽にも師事し,かれの生き方の基本が決まったとみずから語っているほどだから。この二人の師匠との出会いが「舞踏」ということばの誕生となった。

笠井はそれだけではない。二人の師匠の薫陶を受け,ダンサーとしても一人立ちして,一定の評価を受けてから,さらに,ドイツに留学し,ルドルフ・シュタイナーの「オイリュトミー」を学ぶ。この建築家にして神秘的な哲学をわがものとし,さらにその哲学を教育に応用したシュタイナーの思想のどこに感応したのか,笠井のアンテナは鋭く反応したのだ。しかし,笠井の本のなかに,意外にも「オイリュトミー」の話は多くない。なぜか,不思議ではある。しかし,それが姿・形を変えて,笠井独自の身体論を形成していることは間違いない。それが,個人身体,民族身体,地球身体,といった笠井独自の身体概念となって表出している。

こうした一種独特の世界を切り拓いた笠井の身体論を,三井はみごとに受け止め,その核心部分を劈開し,鋭く論評し,読者に向けて投げ返してきた。これは,もはや,三井の世界であり,独壇場だ。その感性の鋭さと思考の深さは他の追随を許さない。わたしは思わず唸ってしまった。

『週刊読書人』は,もう,ずいぶん昔から読みつづけているわたしの愛読紙の一つである。長い年月の間に,この『週刊読書人』も大きく様変わりをした。とくに,最近の変化は驚くべきものがある。それは,ある意味では仕方のないことでもある。メディアの情況がこれほどの激変をしているのだから。それに対応することは容易ではなかろう。しかし,その激変のなかにはよくない傾向も認められる。それも,最近,とみに多くなってきている。

それは「書評」の質の低下である。一番,読んでいて不快なのは,著者と評者が仲良しで,単なる「ベタ褒め」に終始しているものだ。とくに,若い人同士の間で多い。こんなものは書評でもなんでもない。そこには評論も,ましてや,批評も存在しない。単なる「よいしょごっこ」に過ぎない。しかも,本の内容は思想・哲学の新しい知の地平を探索しているような,重い内容のものでそれをやる評者がでてきた。困ったものである。

それでもまあ,こんなのはいい方かも知れない。なぜなら,評者が著者の意図を熟知していて,その上で「ベタ褒め」をしているのだから。最悪なのは,ほとんど読んでいない,と思われる書評だ。タイトルと帯のコピーに言及したあとは,本の内容とはまったく無縁の,個人的な思い出話に終始するタイプ。この無責任さ。それを承知で掲載する編集者の無責任さ。しかも,そういう書評をやる人には「著名人」が多い。名を挙げ,磐石の基盤を築き上げた人だ。明らかに手抜きであり,「堕落」である。読んでいて恥ずかしくなる。ああ,この人も「終った人」か,と。

一番多いのは,当たり障りのない「評論」(コメント)。いいところを持ち上げておいて,あとは,あまり感心しない部分とを取り上げ,簡単な注文をつけて終わり,というタイプ。まさに,高見の見物。上から目線で,ちょっとひとこと。つまり,まだまだだよ,と言っている。どこの,どなたさまですか,と問いたくなる。

今福さんが言うような「批評」精神のかけらもみられない評者が激増している。そして,それを野放しにしている編集者。質はどんどん低下していく。

そんな中での,今回の三井悦子の書評である。異彩を放っている,というのはこういう意味である。みずからの立ち位置を崖っぷちの「エッジ」におき,一つ間違えば,谷底に転落していくことも覚悟の上で,全体重をかけて「批評」を展開する。これは勇気の要ることだ。覚悟といえばいいか。しかし,そこにはほのかな愉悦がある。恩寵といえばいいか。追い込んだ者にのみ与えられる特権だ。これをやらない限り,読者に訴えるものはほとんどない。しかも,評者も成長しない。「終った人」に成り下がるのみ。

とまあ,いささか褒め上げすぎたかも知れないが,わたしたちの仲間うちから,こういう評者が誕生したことの嬉しさに免じて,お許しいただきたい。いまごろになって名古屋で開催した「竹内敏晴さんを囲む会」(三井悦子主宰)が生きてきた,と実感する。わたし自身も含めて。

こういう強烈なライバルが誕生し,わたしもうかうかしていられない。強烈な刺激である。これからは,わたしも負けずにますます切磋琢磨して,お互いの力量を高め合っていきたいものだ。じつはこういう日を待ち望んでいた。そして,若い研究者にも,何人か素晴らしい才能を開花しつつある人がでてきた。愉しみである。

その先陣を切ってくれた三井悦子に幸いあれ!





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