余暇とはいったいどういう時間のことをいうのだろうか。ヨーロッパ近代の主体性の議論(あるいは,近代合理主義の考え方)にもとづけば,労働から解き放たれた,労働以外の時間ということになるのだろう。この労働以外の時間をさらに細分化して,生活時間(睡眠,食事,掃除,洗濯,入浴,など)を差し引いた残りの時間,まさに,余った暇な時間が余暇ということになるのだろう。少なくとも,近代社会における「余暇」はそのように考えられてきたと思う。そして,その考え方にもとづいて社会の制度や法律や組織が構築されてきた。
この近代社会が構築してきたさまざまな制度や法律や組織に大きな歪みや矛盾が生じていることは,今回の「3・11」をとおして,わたしたちにも手にとるように理解できるようになった。このような事態が進行していることをいちはやく察知し,さまざまな問題提起をした思想・哲学者は少なくない。たとえば,ミシェル・フーコーもジャック・デリダも,そして,ベンヤミンやマルクーゼもそうだし,ジョルジュ・バタイユやレヴィナスやブランショ,この人たちに連なるフランス現代思想家たち,などなど枚挙にいとまがないほどだ。ジャック・デリダなどは「脱構築」という概念を提示して,諸矛盾の集合体としての近代を解体し,再出発することを繰り返し提示してきた。
しかし,これらの思想・哲学者たちの提言が現実の政治や経済に反映されることは,ほとんどなかったと言ってよいだろう。なぜなら,近代社会の制度や法律や組織を保持していこうとする守旧派の力の方が圧倒的な強さをもっていたからだ。かれらはどこまでも近代合理主義の考え方に立ち,現体制維持に力を注いできたからである。それが,たとえば,アメリカの「正義」を支える根拠ともなっている。しかし,この「正義」がいかに帝国主義的でご都合主義的な押しつけであるかは,すでに,周知のとおりであろう。この世界秩序がいつまでも存続するとは考えられない。なぜなら,多くの人びとがその矛盾に気づいているからである。
「3・11」を通過したわたしたちは,いま,時代の大きな転換期に立ち会っている。わたしの考えてきた時代区分でいえば,近代から後近代への分岐点に,いま,わたしたちは立たされている。つまり,近代の論理ではもはや立ち行かなくなってしまった日本という国(もちろん,世界も同じ)にとって必要なものは「後近代」の論理だ。近代の論理の抱え込んでしまった諸矛盾を超克することのできる新しい論理が,いま,求められている。そして,そのヒントは,さきに挙げた思想・哲学者の思考のなかにふんだんに盛り込まれている。
「余暇」の問題も,近代という枠組みから抜け出して,後近代という視座に立つことがいま求められている,とわたしは考える。もっと言ってしまえば,「余暇」という考え方そのものがもはや臨界点に達している,と考えるからだ。だからこそ,そこをいかにして突破していくか,それが「3・11」以後を見据えるための基本的な視座である,とわたしは考えている。
このように考えてくると,冒頭にかかげたテーゼ「余暇とはいったいどういう時間のことをいうのだろうか」が,わたしには,まずは踏み越えていかなければならない最初のハードルとなる。デリダ風にいえば,「余暇の脱構築」だ。
以上が,わたしの思考のさしあたっての前提である。
さて,その前提の説明が長くなってしまったので,いきなり問題の核心に踏み込んでいくことにしよう。
いまさらハイデガーを引き合いに出すまでもなく,わたしたちの存在は時間性のなかに雲散霧消してしまい,その確たる根拠を確認することはできない。つまり,自己の拡散,主体の不在。「いま,ここ」という現在は,あるとすれば,瞬間,瞬間のなかにしかありえない。その瞬間とはあってなきがごときものでしかない。つまり,「いま」と言った瞬間に,その「いま」はすでに過去であり,二度とその「いま」を取り戻すことはできないからだ。そして,過去は人間個々人の記憶のなかにしか存在しない。そして,未来もまた人間個々人の想像のなかにしか存在しない。ある程度の共有は可能であったとしても,厳密には個々人のものでしかない。つまり,わたしという存在そのものが時間性のなかに拡散してしまい,主体の不在という事態に立ち至ることになる。それが,わたしたちのありのままの存在様態なのだ。このことをまずは確認しておこう。
このように考えると,わたしたちの「身体」もまた同様であることがわかってくる。「わたしの身体はわたしの身体であってわたしの身体ではない」というテーゼを,かなり以前にわたしは提起し,いまもその思考を深めつつある。なんだかややこしい言いまわしになっているが,内実は簡単なことだ。つまり,こういうことだ。
わたしの身体は,快適に暮らしているときには,その存在を意識することはない。意識するのは,他者からの働きかけがあったときのみで,そのとき初めてわたしの身体が立ち現れる。つまり,わたしの身体は,快感,苦痛,不快,寒い,暑い,などの他者性のなかに埋没している。だから,よほどのことがないかぎり,わたしという自己は,自己の身体の存在すら忘れている。そして,忘れていられる身体こそが健康・健全(このことばも,じつは近代的な概念であまり用いたくはない)であり,できることなら常時,そのような身体でありたい。しかし,病気は忘れていた身体をにわかに現前させることになる。
スポーツの経験からも「わたしの身体はわたしの身体であってわたしの身体ではない」というテーゼは理解できるだろう。たとえば,運動に習熟する過程は,まさに,わたしの意のままになる身体と意のままにならない身体との格闘そのものである。そこを通過するために練習(稽古)がくり返される。そして,意のままに動けるようになると,もはや,わたしの身体のことを考えることもなくなってくる。さらに,トップ・アスリートになってくると,自分でも予期せざる動きをからだがするようになる。つまり,自分の意志を越えてからだが動きはじめるのである。スーパー・プレイなどはこういう状態のときに起こる(こういうときには,多くの経験者が語っているように,周囲の動きがスローモーションでみえるようになる)。すでに,わたしの身体が「わたしの身体ではない」状態に入っている。また,逆に,スランプに陥ると,これまで動けたからだが動かなくなってしまう。この身体もまた,「わたしの身体ではない」ところに逃げてしまう。
こんな風にして,スポーツする身体もまた時間性のなかに埋没していく。その世界は,もはや,物理的な時間も,精神的な時間も超越した,もうひとつの次元の違う世界なのだ。だから,そこに流れている「時間」は日常性のなかのそれとは異なる。
これは労働していても,同じように起こりうる,とわたしは考えている。つまり,労働に集中して,なにもかも忘れてしまう状態。まるで,時間が止まってしまったかのように感ずる状態。忘我没入の状態。この世界は,ある意味では,時間から解き放たれた,まったくの自由の世界。わたしの存在すら消えてしまう状態。
この状態は,マルクーゼのいう「瞑想」とも,バタイユのいう「エクスターズ」(恍惚)とも,はたまて西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」とも,それぞれプロセスも到達点も微妙な違いはあるものの,きわめて近接した「場所」であることは間違いない,とわたしは考えている。ここは,いわゆる近代的自我のように自己完結した「閉じた状態」とは間逆の,心身ともに「開かれた状態」が待ち受けている。バタイユに言わせれば,ヘーゲルのいう「絶対知」に対する「非-知」。すなわち「閉じざる思考」ということになる。
ここが,人間の「生」(エロス)の源泉であるとすれば,近代的思考に慣らされてきたわたしたちの思考を180度,逆転させることが不可欠となってくる。だからといって,一度に,そのようなことをすれば,わたしたちの社会生活は崩壊してしまう。そうではなくて,近代社会をとおして抑圧・排除・隠蔽されてきた「エロス」の時空間を,どのようにして回復させるか,ということが当面の課題なのだろうと考えている。言ってしまえば,「理性」と「エロス」の調和。あるいは,動物性への回帰。
そこは,「余暇」などという概念も存在しない,心身ともに解き放たれた時空間。竹内敏晴が求めつづけた「じかに触れる」世界。自己と他者の境界が消滅する世界。そういう世界の確保に向けて舵を切るとき,それが「いま」ではないか,とわたしは真剣に考えている。あらゆる営為が時間性のなかに溶融していくような「場所」を求めて。
ということで,今日のところは,ここまで。
この近代社会が構築してきたさまざまな制度や法律や組織に大きな歪みや矛盾が生じていることは,今回の「3・11」をとおして,わたしたちにも手にとるように理解できるようになった。このような事態が進行していることをいちはやく察知し,さまざまな問題提起をした思想・哲学者は少なくない。たとえば,ミシェル・フーコーもジャック・デリダも,そして,ベンヤミンやマルクーゼもそうだし,ジョルジュ・バタイユやレヴィナスやブランショ,この人たちに連なるフランス現代思想家たち,などなど枚挙にいとまがないほどだ。ジャック・デリダなどは「脱構築」という概念を提示して,諸矛盾の集合体としての近代を解体し,再出発することを繰り返し提示してきた。
しかし,これらの思想・哲学者たちの提言が現実の政治や経済に反映されることは,ほとんどなかったと言ってよいだろう。なぜなら,近代社会の制度や法律や組織を保持していこうとする守旧派の力の方が圧倒的な強さをもっていたからだ。かれらはどこまでも近代合理主義の考え方に立ち,現体制維持に力を注いできたからである。それが,たとえば,アメリカの「正義」を支える根拠ともなっている。しかし,この「正義」がいかに帝国主義的でご都合主義的な押しつけであるかは,すでに,周知のとおりであろう。この世界秩序がいつまでも存続するとは考えられない。なぜなら,多くの人びとがその矛盾に気づいているからである。
「3・11」を通過したわたしたちは,いま,時代の大きな転換期に立ち会っている。わたしの考えてきた時代区分でいえば,近代から後近代への分岐点に,いま,わたしたちは立たされている。つまり,近代の論理ではもはや立ち行かなくなってしまった日本という国(もちろん,世界も同じ)にとって必要なものは「後近代」の論理だ。近代の論理の抱え込んでしまった諸矛盾を超克することのできる新しい論理が,いま,求められている。そして,そのヒントは,さきに挙げた思想・哲学者の思考のなかにふんだんに盛り込まれている。
「余暇」の問題も,近代という枠組みから抜け出して,後近代という視座に立つことがいま求められている,とわたしは考える。もっと言ってしまえば,「余暇」という考え方そのものがもはや臨界点に達している,と考えるからだ。だからこそ,そこをいかにして突破していくか,それが「3・11」以後を見据えるための基本的な視座である,とわたしは考えている。
このように考えてくると,冒頭にかかげたテーゼ「余暇とはいったいどういう時間のことをいうのだろうか」が,わたしには,まずは踏み越えていかなければならない最初のハードルとなる。デリダ風にいえば,「余暇の脱構築」だ。
以上が,わたしの思考のさしあたっての前提である。
さて,その前提の説明が長くなってしまったので,いきなり問題の核心に踏み込んでいくことにしよう。
いまさらハイデガーを引き合いに出すまでもなく,わたしたちの存在は時間性のなかに雲散霧消してしまい,その確たる根拠を確認することはできない。つまり,自己の拡散,主体の不在。「いま,ここ」という現在は,あるとすれば,瞬間,瞬間のなかにしかありえない。その瞬間とはあってなきがごときものでしかない。つまり,「いま」と言った瞬間に,その「いま」はすでに過去であり,二度とその「いま」を取り戻すことはできないからだ。そして,過去は人間個々人の記憶のなかにしか存在しない。そして,未来もまた人間個々人の想像のなかにしか存在しない。ある程度の共有は可能であったとしても,厳密には個々人のものでしかない。つまり,わたしという存在そのものが時間性のなかに拡散してしまい,主体の不在という事態に立ち至ることになる。それが,わたしたちのありのままの存在様態なのだ。このことをまずは確認しておこう。
このように考えると,わたしたちの「身体」もまた同様であることがわかってくる。「わたしの身体はわたしの身体であってわたしの身体ではない」というテーゼを,かなり以前にわたしは提起し,いまもその思考を深めつつある。なんだかややこしい言いまわしになっているが,内実は簡単なことだ。つまり,こういうことだ。
わたしの身体は,快適に暮らしているときには,その存在を意識することはない。意識するのは,他者からの働きかけがあったときのみで,そのとき初めてわたしの身体が立ち現れる。つまり,わたしの身体は,快感,苦痛,不快,寒い,暑い,などの他者性のなかに埋没している。だから,よほどのことがないかぎり,わたしという自己は,自己の身体の存在すら忘れている。そして,忘れていられる身体こそが健康・健全(このことばも,じつは近代的な概念であまり用いたくはない)であり,できることなら常時,そのような身体でありたい。しかし,病気は忘れていた身体をにわかに現前させることになる。
スポーツの経験からも「わたしの身体はわたしの身体であってわたしの身体ではない」というテーゼは理解できるだろう。たとえば,運動に習熟する過程は,まさに,わたしの意のままになる身体と意のままにならない身体との格闘そのものである。そこを通過するために練習(稽古)がくり返される。そして,意のままに動けるようになると,もはや,わたしの身体のことを考えることもなくなってくる。さらに,トップ・アスリートになってくると,自分でも予期せざる動きをからだがするようになる。つまり,自分の意志を越えてからだが動きはじめるのである。スーパー・プレイなどはこういう状態のときに起こる(こういうときには,多くの経験者が語っているように,周囲の動きがスローモーションでみえるようになる)。すでに,わたしの身体が「わたしの身体ではない」状態に入っている。また,逆に,スランプに陥ると,これまで動けたからだが動かなくなってしまう。この身体もまた,「わたしの身体ではない」ところに逃げてしまう。
こんな風にして,スポーツする身体もまた時間性のなかに埋没していく。その世界は,もはや,物理的な時間も,精神的な時間も超越した,もうひとつの次元の違う世界なのだ。だから,そこに流れている「時間」は日常性のなかのそれとは異なる。
これは労働していても,同じように起こりうる,とわたしは考えている。つまり,労働に集中して,なにもかも忘れてしまう状態。まるで,時間が止まってしまったかのように感ずる状態。忘我没入の状態。この世界は,ある意味では,時間から解き放たれた,まったくの自由の世界。わたしの存在すら消えてしまう状態。
この状態は,マルクーゼのいう「瞑想」とも,バタイユのいう「エクスターズ」(恍惚)とも,はたまて西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」とも,それぞれプロセスも到達点も微妙な違いはあるものの,きわめて近接した「場所」であることは間違いない,とわたしは考えている。ここは,いわゆる近代的自我のように自己完結した「閉じた状態」とは間逆の,心身ともに「開かれた状態」が待ち受けている。バタイユに言わせれば,ヘーゲルのいう「絶対知」に対する「非-知」。すなわち「閉じざる思考」ということになる。
ここが,人間の「生」(エロス)の源泉であるとすれば,近代的思考に慣らされてきたわたしたちの思考を180度,逆転させることが不可欠となってくる。だからといって,一度に,そのようなことをすれば,わたしたちの社会生活は崩壊してしまう。そうではなくて,近代社会をとおして抑圧・排除・隠蔽されてきた「エロス」の時空間を,どのようにして回復させるか,ということが当面の課題なのだろうと考えている。言ってしまえば,「理性」と「エロス」の調和。あるいは,動物性への回帰。
そこは,「余暇」などという概念も存在しない,心身ともに解き放たれた時空間。竹内敏晴が求めつづけた「じかに触れる」世界。自己と他者の境界が消滅する世界。そういう世界の確保に向けて舵を切るとき,それが「いま」ではないか,とわたしは真剣に考えている。あらゆる営為が時間性のなかに溶融していくような「場所」を求めて。
ということで,今日のところは,ここまで。
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