2011年10月12日水曜日

「余暇」という不思議なことばについて考える。その1.Freizeit と leisure の間。

日本余暇学会から基調講演を依頼されたときに,はたと考え込んでしまったのは「余暇」ということばの不思議さでした。これまで,ほとんどなにも考えることなく当たり前のように「余暇」ということばをわたし自身も用いてきました。しかし,いざ「余暇」の公共性などという表現に接したとき,あれれ,と考えてしまいました。そして,日本余暇学会としては「余暇」ということばについて,どんな議論を積み上げてこられたのだろうか,などとあれこれ思いを巡らせていました。

「余暇」。この文字面が気に入らない。「余った暇」。暇は暇であって,余るもへちまもないはずではないか,と。ドイツ語では Freizeit(フライツァイト) 。つまり,「自由時間」。英語では leisure 。これは「レジャー」という片仮名表記で立派な日本語になっています。なのに,なぜ,leisure という英語に「余暇」という訳語を当てたのでしょうか。なぜ,英語では free time と leisure が使い分けられているのでしょうか。どうやら,ドイツ語圏と英語圏では余暇についての考え方が基本的に違うようです。

わたしの接したドイツ人のライフスタイルからみた印象では,まずは,Freizeit があって,そのつぎに労働( Arbeit )がくる。つまり,生活の中心に Freizeit が,でーんと鎮座ましましているわけです。そして,労働時間を可能なかぎり短くすることにかれらは全知全能をしぼっているように見受けます。冬が終って春の太陽が輝きはじめると,もう,このときから夏のパカンスの計画に夢中になっています。明けても暮れても,こんな話題ばかりです。そして,原則的に一カ月間,きちんと休みをとり,地中海方面へとでかけていきます。

これには深いわけがあります。ドイツの冬はほとんど太陽が顔をみせません。毎日,くる日もくる日も雲が低く垂れ込めて,暗い毎日です。その間,じっと耐えて暮らすことになります。その結果,佝僂病と皮膚病に罹る率が高くなります。その予防をかねて夏は太陽の燦々と照る地中海に向かうというわけです。地中海まで行かれない人は,自分の家の庭で,ほとんど全裸で日光浴をしています。公園でもよくみかけます。老いも若きもみんな,人目を憚ることなく,かまわず全裸の日光浴に専念しています。慣れない日本人であるわたしが,眼のやり場がなくて困るほどです。

それはともかくとして,ドイツ人は,徹底してFreizeit を手放そうとはしなかった歴史過程があったようです。それに引き換え,英語圏の方が,産業社会の締めつけが強く,労働を中心のライフスタイルを余儀なくされてきた節があります。単純化して述べておけば,だれでも知っている産業革命によって,工場労働者が激増します。しかも,過酷な長時間労働が強いられました(エンゲルスが詳細に記述しているとおり)。そのために多くの問題が発生しました。その補填として,資本家が編み出したのがleisure ,すなわち「余暇」を下賜するという発想でした。つまり,労働に対して「余った暇」というわけです。その意味では,「余暇」とは名訳といわざるを得ません。

ドイツは,その点,後進国でしたから,先進国の教訓を見習って深刻な労働問題になる前に,しかるべく手を打ったということです。ですから,労働者はしっかりと Freizeit を確保したまま,資本家と向き合うことができたという次第です。このプロセスには,じつは,とても面白いエピソードがいくつもありますが,ここでは割愛します。

ところが,同じ後進国であったはずの日本は,資本家の力が強く,英語圏なみの締めつけを経験しました。あるいは,それ以上というべきかもしれません。しかも,儒教的影響もあって,勤勉のエートスが支配的で,それに逆らうこともできませんでした。ヨーロッパ的な「個」(自我)の意識も低く,ただひたすら受け身のまま,忍従するばかりでした。

しかし,これらのことがらは,みんな近代に入ってからの話です。近代国民国家の誕生とともに,国民の身体は,国家を支える労働と軍隊のために,もののみごとに絡め捕られていきました。このように考えますと,「余暇」ということばが,じつにうまく嵌まり込むことに気づきます。お上からいただくありがたい「余った暇」というわけです。それが,こんにちもなお用いられている,ということがわたしには気に入らない理由です。

ましてや,「3・11」を通過したいまということを考えますと,大急ぎで「余暇」ということばの批判的な検証が必要なのではないか,と思います。できることなら,「余暇」ということばに代わる名訳を提示していただきたいものです。

そのためには,たぶん,余暇の語源といわれるギリシア語のスコーレーが,そもそも,どのような歴史背景から立ち現れてくるのか,ということを確認しておくことが必要だと思います。このことについては,つぎのブログで考えてみたいと思います。今日のところはここまで。



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