2011年10月15日土曜日

「余暇」という不思議なことばについて考える。その4.「自己」と「共同体」との関係。

「余暇」ということばを考えていて,どうしてもひっかかることの一つが「私」と「公」の関係です。これまで,このようなことは考えたこともなかったものですから,基調講演として与えられた題目「『3・11』以後の日本人のライフ・スタイルとスポーツの行方」のサブタイトルに付された「『私』と『公』の交わる場所で」というところで,はっとさせられた次第です。

さて,「私」と「公」の交わる場所で,とはどういうことなのでしょうか。一見したところわかりやすいようですが,考えれば考えるほどむつかしい問題だ,ということに気づきました。そこで,わたしなりに行きついた結論が,これは「共同体」の問題だ,と。そして,共同体に絡め捕られることのない「私」(つまり,「自己」)をどのように考えるか,というところに行きついたという次第です。

そこで,書棚から,まずは『明かしえぬ共同体』(M.ブランショ著,西谷修訳,1984年)をとりだし,ついで『無為の共同体──哲学を問い直す「分有」の思考』(ジャン=リュック・ナンシー著,西谷修・安原伸一郎訳,2001年)をとりだして,あちこち拾い読みをはじめました。これはとても難儀な仕事で,どこまでも際限がありません。最後は時間切れというところであきらめて,とりあえず,この二人の考える「共同体」論に,これまで多少の蓄積のあるジョルジュ・バタイユの考え方を援用しながら,わたしなりに「共同体」についての考えを確認するにとどめて,講演に臨みました。

が,残念ながら,こちらも話があちこち脱線しすぎて,この話に至る前に時間切れ。ですから,その補填といいますか,いい訳を少しだけ,ここで述べておきたいと思います。

まずは,基本的なことがらの確認です。
「私」と「公」という設問の立て方そのものが,二項対立的な近代の思考の枠組みの中にある,ということを確認しておく必要があろうと思います。とりわけ,「3・11」以後の・・・と言っている以上,ここのところが重要です。なぜなら,すでに何回も書いていますように,「3・11」を通過することによって,近代が積み上げてきた諸矛盾が一気に露呈してしまい,近代論理がほぼ崩壊してしまった,とわたしは考えているからです。そして,「3・11」以後,わたしたちが考えなくてはならないことは,近代の論理をいかに超克して,「後近代」の論理を構築していくか,ということだとわたしは考えています。

ですから,「3・11」以後の日本人のライフ・スタイルとスポーツの行方,というタイトルが求めている最大のポイントは,後近代の「ライフ・スタイル」を考えることであり,後近代の「スポーツ」を考えることにある,とわたしなりに位置づけました。その上で,「私」と「公」の交わる場所で,というサブタイトルを考えてみますと,これはもはや「私」も「公」も消えてなくなってしまう「場所」というように読み取ることが可能となります。

M.ブランショのいう「明かしえぬ共同体」とは,まさに,そういうレベルの議論です。もっと言ってしまえば,「私」が引き裂かれた存在として解体されてしまえば(つまり,主体の不在),「共同体」そのものもまた解体されてしまい,実態をもたない「共同体」が浮かび上がる,というレベルでの議論だとわたしは理解しています。だからこそ「明かしえぬ共同体」なのだ,と。

ジャン=リュック・ナンシーの「無為の共同体」もまた,同じような議論が展開されます。ここでいう「無為」をどのように理解するかは大いに議論があるところだと,わたしは考えています。つまり,文字どおり「なにもしない」とするか,あるいは,「なすことがない」(つまり,完璧な)とするか,ということです。『老子道徳経』のなかには「無為自然」という有名なことばがでてきます。この「無為」は,「なすことがない=完璧な」という意味で解釈されています。ジャン=リュック・ナンシーのいう「無為」もまた,その地平にとても近い,とわたしは解釈しています。

もう一点,考えておきたいことは,ジャン=リュック・ナンシーの共同体論のキー概念となっている「パルタージュ」(partage)です。一般的には「分割/分有」と訳されています。縮めて「分有」とする場合もあります。その意味は,「接触」によって起こる「分割/分有」という考え方です。もう少し踏み込んでおきますと,人と人とが「接触」する,このことによって「共同体」というものがはじめて成立する,という考え方です。しかし,この「接触」,たとえば,握手したとします。その握手という皮膚の「接触」をとおして,自己と他者はお互いにあるなにか(情報)を「分割」し,「分有」することになります。しかも,その「分割」し,「分有」するなにか(情報)は,けして同じではありません。ここからして,自己と他者が「同じなにか(情報)を共有する」ということはありえない,ということが明確になってきます。そういう人と人の集団が形成する「共同体」とはなにか,とジャン=リュック・ナンシーは問題を投げかけてきます。

このような議論は,わたしには,ジョルジュ・バタイユが『宗教の理論』(湯浅博雄訳,2002年)の中で提示した「動物性の世界」に通底している,と理解されてしまいます。そして,さらに言っておくとすれば,バタイユのいう「非-知」(Le non savior )の世界であり,「エクスターズ」( extase )の世界でもあります。つまり,ヘーゲルの提示した「絶対知」(Das absolute Wissen )の対極に位置づく概念として,バタイユは「非-知」を提示し,「エクスターズ」(恍惚)を提示します。

バタイユがこのような概念を提示し,論陣を張った背景の一つには,人類が動物性の世界から離脱し,新たに人間性の世界に移動し,「理性」に依存する生き方を選んだときにいったいなにが起きたのか,という根源的な問いが隠されている,とわたしは受け止めています。そして,そこにこそ,大いに共鳴・共感するものです。

なぜなら,スポーツ史やスポーツ文化論を考える上で,避けて通ることのできない視点であり,論点であるからです。そのことは,同時に,わたしがレジャーやレクリェーションを考える上でも同様です。ということは,「余暇」の問題を考える上でも同じです。

つまり,「3・11」以後の問題を考えるということは,近代の論理の枠組みから抜け出すことが不可欠です。そのためには,わたしにとってはフランス現代思想の根幹にかかわる議論がとても大きなヒントになっている,という次第です。

この短いブログで意をつくすことはできませんが,また,別のテーマをとおして,この問題は考えてみたいと思います。ということで,今日のところはここまで。

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