2011年10月24日月曜日

意志の人ベラ・チャスラフスカさんに深甚なる敬意を表します。

ベラ・チャスラフスカという名前を覚えている人は,いまの日本にどのくらいいるのだろうか,とじっと考えてしまいます。だから,どこから,このブログを書きはじめればいいのか,とどまどっています。でも,そんなことを言っていてもはじまらないので,とにかく,わたしの中の「ベラ・チャスラフスカ」を語ることにしましょう。それも,正直に。

『東京新聞』には,10月21日の夕刊で「あの人に迫る」という大きなコラムでとりあげられ,大きな写真入りの素晴らしい記事になっていました。他社の新聞社では,どのような取り扱いがされたのだろうか,といささか気がかりです。(たぶん,こんなに大きくは取り上げなかったのではないか,と想像していますが。できれば,内緒で教えてくださるとありがたいのですが・・・・。ひょっとしたら,どこの新聞社も無視したのではないか,と危惧しています。なぜなら,チェコの反体制運動家として,その名を轟かせた人ですから,都合が悪いメディアが多いはずです。とくに,「3・11」以後は。なぜなら,ペラ・チャスラフスカなら間違いなく「脱原発」というに決まっていますから。)

ペラ・チャスラフスカ。1964年の東京オリンピックと1968年のメキシコオリンピックの女子体操競技の個人総合で2連覇した名選手。もちろん,その他の種目別でもたくさんのメダルを獲得しました。。当時の新聞はこぞって「体操の名花」と讃えました。まず,なによりも「美人」だった。世の中にこんな美しい女性(ひと)がいるのか,とわが眼を疑ったほどです。もう,顔をみるだけで惹きつけられる,そういう魅力にあふれていました。

ですから,当時,ようやく普及しはじめていたテレビの前で多くの日本人の眼は,このベラ・チャスラフスカという選手に釘付けだったのではないでしょうか。ですから,東京オリンピックの記憶のある人なら,ペラ・チャスラフスカといえばだれでも知っている名前です。もちろん,顔も思い出せるはずです。その美しいプロポーションも一緒に。あるいは,あの美しい金髪のヘヤー・スタイルも。その超美人が優雅に平均台で舞い,跳馬で当時の新技「山下跳び」をみせてくれました。しかも,完璧な演技として。女子ではまだ跳べる人は少なかった時代です。

とにかく,東京体育館のすべての観客はこぞってベラ・チャスラフスカの姿を追っていました。なぜなら,ベラ・チャスラフスカが演技をはじめると,みんな口を閉じ,「シーン」と静まり返ってしまったほどです。その静けさのなかで,観客全員の視線を全身に浴びながら,ペラ・チャスラフスカは演技をしていました。

このとき,わたしは体操競技部門の平均台の器具係のひとりとして,お手伝いをしていました。ですから,直近で,ベラ・チャスラフスカの平均台の演技をみていました。それは驚くべき光景でした。ほかの選手たちとはまったく違うオーラが溢れ出ていて,他者を寄せつけない迫力のようなものが漲っていました。もう,存在そのものが尋常ではありませんでした。集中度の高い,理性的で,意志のしっかりした表情が演技を支配し,終わって,着地をしたとたんにこぼれるような「笑顔」になります。そして,大きな,大きな観客からの拍手。なんという選手なんだろう,としみじみ思いました。世界にはすごい選手がいるものだ,と。

女子も男子もふくめて,体操競技という競技種目が,みていて分かりやすく,楽しく,美しいものであった時代の,この時代が最後でした。その後,体操競技は「サーカス化」への道を歩むことになります。と同時に,わたしの体操競技への興味も関心も薄らいでいきました。

それはともかくとして,ここからが今日のブログの山場です。
ペラ・チャスラフスカの祖国チェコスロバキアは,メキシコオリンピックの直前に,ソ連などワルシャワ条約機構軍によって侵攻されます。いわゆる「プラハの春」とうたわれたチェコの民主化を推進する「二千語宣言」の署名運動が展開されました。しかし,それをこころよしとしないワルシャワ条約機構軍の侵攻による弾圧です。しかし,ペラ・チャスラフスカは迷わずこの宣言に署名しています。ですから,あわてて,ベラ・チャスラフスカは山奥に隠れて,地面に線を引いて,メキシコ・オリンピックのための練習をつづけます。その上での,個人総合優勝です。

それからが大変でした。オリンピックから帰国してすぐに,ソ連の意を受けた政府から激しい弾圧を受けます。「二千語宣言」への署名を撤回せよ,と。ザトペック選手(「人間機関車」と異名をとった長距離ランナー。一万メートルとマラソンで金メダリスト)をはじめ,名だたる選手たちがつぎつぎに署名撤回を宣言します。しかし,ペラ・チャスラフスカだけは,断固として,それに応じません。そのため,警察からはしつこく脅され,家族のみならず,友人まで圧力がかけられたといいます。そして,職業はおろか,なにもかも奪われて幽閉状態に追い込まれます。でも,彼女は,みずからの節度を変えようとはしませんでした。

この弾圧がどれほど過酷なものであったかは,詳細はわかりません。しかし,ベラ・チャスラフスカはどこまでもみずからの信念を押し通しました。そして,21年後の1989年,とうとうチェコの民主化が実現して,ハベル大統領の顧問としてカムバックします。そして,全力をあげて国家のために尽くします。しかし,あまりの激務にとうとう身もこころもボロボロになってしまいます。そこに,家族の悲劇的なことが起きて,体調をくずし(こころの病を得た,とわたしは別ルートから聞いていました),15年間もの間,家に籠もってしまいます。

2009年11月17日に,守護天使の声を聞きます。「ペラ,行きなさい」と。その日は,1989年の自由化のきっかけとなった若者たちの集会が開かれた日から,ちょうど20周年。学生たちと警察が衝突した場所に行って,ろうそくに火をつけて供えたら,自分がもどってきました,と彼女は言っています(『東京新聞』の記事による)。

こうして,彼女はみずからの人生を取り戻します。

「真っすぐに人の目を見ることができる。これは何事にも替えられない気持ちでした」と,彼女は述懐します。

今月,世界体操選手権が東京で開催されたのを機に来日。
じつは,わたしも「ベラ・チャスラフスカを囲む会」から招待状をもらっていました。残念ながら,別件の先約があり,どうしてもやりくりがつかず,欠席しました。なんとしても出かけて行って,たったひとことでもいい,声をかけてみたかった,と残念でなりません。

新聞に掲載されている写真をみるかぎり,小じわは増えていますが,はやり,美人。素晴らしい笑顔の魅力はいまも衰えてはいません。元気になったということであれば,一度,チェコまででかけて行って,直接会って,いろいろのお話を伺ってみたいと思っています。たぶん,ドイツ語で話ができるはずですから。

信念の人ベラ・チャスラフスカさん。貴女の生き方にこころからの敬意を表したいと思います。

わたしたちは,いま,「3・11」を通過して,これからの生き方について,ある重要な決断をしなければいけないと覚悟をしています。そんな折の,貴女の来日に,こころから感謝します。なにものにも替えがたい勇気をいただきました。わが信ずるところを進め!と。

1 件のコメント:

大仏 さんのコメント...

ベラ・チャスラフスカ氏
たしかに信念の人ですね。
興味深く読ませていただきました。