こんにちのわたしたちが過ごしている時間にくらべれば,前近代までは,おおむね,ゆるやかな時間が流れていたようです。すくなくとも前近代までは,労働と余暇という二項対立的な考え方は存在しませんでした。天気がいいなぁ,じゃあ,ちょっと畑に行ってくるよ。今日は朝から雨か,じゃあ,家でできることでもしようか(こんにちなら本でも読んでいるか)。いわゆる「晴耕雨読」のライフ・スタイルです。しかし,近代に入ると徐々にそうはいかなくなってきます。
近代スポーツの誕生に大きな役割をはたしたといわれるイギリス近代とはどういう時代だったのでしょうか。ひとくちに言ってしまえば,産業革命以後,都市に労働者が集まりはじめ,都市の様相が一変していきます。とくに,工場労働者は,まことにみじめな労働条件を強いられ,朝から夜遅くまで働かなくてはなりませんでした。その過酷な労働者の状況はエンゲルスの主著『イギリス労働者階級の状態』(1845)に詳しく述べられてるとおりです。
この労働者たちが,あまりの長時間労働と住環境の悪さのために,多くの人びとが病気にかかり,死者もあとを絶ちませんでした。ですから,少しずつ労働時間を短くし,住環境を整える,ということが行われるようになりました。この労働時間の短縮によって生まれた時間が,いわゆる「余暇」。しかし,この余暇を労働から解き放たれた人びとの「レジャー」として,ふたたび回収しようとする力が働くようになります。つまり,産業社会は,どこまでも労働者を食いものにしていきます。こうして,余暇ということばが労働以外の時間として受け止められる概念が成立してきます。
それに引き換え,大地主のジェントリーと呼ばれる人びとは,労働を小作人に任せ,日がな一日,自分の好きなように時間を消費することができました。つまり,毎日が余暇そのものです。ですから,その暇つぶしのためになにをするのか,ということがジェントリー階級の重大な関心事になります。その中心にあったものが,狩猟です。それも単なる狩猟ではありません。たとえば,キツネ狩り。馬に乗って走りながら,たくさんの猟犬に指図しながら獲物のキツネを追い込んでいきます。そして,追い込んだキツネに最後のトドメをさす。しかも,ひとりではなくて,友人たち数名が集まり,競争でキツネを追い込みます。
この様子は,フィールディングの傑作『トム・ジョーンズ』(1749年)という小説に詳しく描写されています。この小説にはじめて「スポーツマンシップ」(sportsmanship)ということばが使われ(『OED』による),その意味は「狩猟家」という意味でした。つまり,最初の「スポーツマン」は狩猟家だったということがわかります。そして,この狩猟家こそ,労働をする必要のない身分の人たちでした。つまり,全生活時間が自分の思うようになる階級の人たちです。言ってしまえば,「余暇」そのものが人生だった人たちです。
イギリス近代になって用いられるようになった「スポーツ」ということばも,じつは「暇つぶし」に狩猟をやっていた人びとから生まれてきます。そして,徐々に,自由時間を確保できる階級の間に「スポーツ」が溶け込んでいきます。そして,労働者の労働時間がどんどん減少されるにしたがって,労働者の「余暇」活動としてのスポーツが盛んになってきます。ですから,近代スポーツは,この「余暇」なしには誕生しなかった,というわけです。
もう一つ,加えておけば,ラグビー・スクールではじまったフットボール(のちのラグビー)も同じです。ラグビー・スクールは有名なパブリック・スクールですが,この学校のなかでフットボールのルールが整備され,技術や戦術が進化し,近代スポーツの礎を築いていくことになります。はじめは,学校の余暇時間に少年たちの自主的な活動として行われていましたが,校長のアーノルドはこれを積極的に「授業」として取り入れました。以後,この傾向は,多くのパブリック・スクールにも影響を与え,またたく間に普及していきます。
やがて,このフットボールが,「ラグビー」と「サッカー」の二つのボール・ゲームとして世界に広まっていきます。こうして,少なくとも「アマチュア・スポーツ」としての近代スポーツ競技は,「余暇」活動の一環として行われていたと言っていいでしょう。しかし,やがて「プロ・スポーツ」が誕生しますと,こちらは「経済原則」に絡め捕られた「近代スポーツ競技」として,別の顔をもつようになります。以後,こんにちまでのいきさつは,すでに,よく知られているとおりです。
このイギリスで誕生した近代スポーツ競技を日本に持ち込んだのも,じつは,日本の貴族たちでした。とりわけ,天皇家はスポーツ好きで知られています。いまの新宿御苑は,かつては高遠藩の江戸屋敷でしたが,明治以後は天皇家のための乗馬やテニスやクリケットなどの娯楽施設でした。あるいは,天皇家と貴族たちとの社交の場として,当時の最先端のスポーツが繰り広げられたところです。ですから,日本のスポーツもまた,たっぷりと「余暇」時間を確保できる人たちから,徐々に,下層階級へと広まっていきます。
面白いことに,スポーツが学校に最初に取り入れられたのは「大学」です。それから,徐々に,高等学校(旧制),中等学校,小学校へと広まっていきました。
このように,近代スポーツの普及という側面から眺めてみましても,余暇が大前提になっていると同時に,「学校」が大きな役割をはたしている,という点は注目しておいていいのではないでしょうか。このように考えてきますと,「余暇」ではなくて「本暇」ではないか,といいたくなってきます。が,それもちょっと変なことばですので,もっといい訳語をみつけることが必要ではないか,とわたしは考えています。
とりわけ,「3・11」を通過して,わたしの考える「後近代」に突入した,このタイミングを逃してはならないと思います。それは,同時に,近代が生み出した「用語」を,もう一度,根源から問い直すことの必要性をも意味しています。
かつて,「スポーツ史学会」を立ち上げるとき,「スポーツ」ということばそのものがきわめて「犯罪的」なことばであるから,学会の名前として用いるべきではない,と主張した人がいらっしゃいました。しかし,その議論はともかくとして,「スポーツとはなにか」という根源的な問い直しをする必要はあろうと思っています。しかも,喫緊の課題として。
その意味で,「余暇」ということばも,日本余暇学会としては,改めて俎上に乗せ,みんなで議論を積み重ねていくことが急務ではないか,と思います。また,そのことによって,さらに深い学問的な議論の地平が開かれてくるのではないか,と考えています。
長くなってしまいました。というところで,今日はここまで。
近代スポーツの誕生に大きな役割をはたしたといわれるイギリス近代とはどういう時代だったのでしょうか。ひとくちに言ってしまえば,産業革命以後,都市に労働者が集まりはじめ,都市の様相が一変していきます。とくに,工場労働者は,まことにみじめな労働条件を強いられ,朝から夜遅くまで働かなくてはなりませんでした。その過酷な労働者の状況はエンゲルスの主著『イギリス労働者階級の状態』(1845)に詳しく述べられてるとおりです。
この労働者たちが,あまりの長時間労働と住環境の悪さのために,多くの人びとが病気にかかり,死者もあとを絶ちませんでした。ですから,少しずつ労働時間を短くし,住環境を整える,ということが行われるようになりました。この労働時間の短縮によって生まれた時間が,いわゆる「余暇」。しかし,この余暇を労働から解き放たれた人びとの「レジャー」として,ふたたび回収しようとする力が働くようになります。つまり,産業社会は,どこまでも労働者を食いものにしていきます。こうして,余暇ということばが労働以外の時間として受け止められる概念が成立してきます。
それに引き換え,大地主のジェントリーと呼ばれる人びとは,労働を小作人に任せ,日がな一日,自分の好きなように時間を消費することができました。つまり,毎日が余暇そのものです。ですから,その暇つぶしのためになにをするのか,ということがジェントリー階級の重大な関心事になります。その中心にあったものが,狩猟です。それも単なる狩猟ではありません。たとえば,キツネ狩り。馬に乗って走りながら,たくさんの猟犬に指図しながら獲物のキツネを追い込んでいきます。そして,追い込んだキツネに最後のトドメをさす。しかも,ひとりではなくて,友人たち数名が集まり,競争でキツネを追い込みます。
この様子は,フィールディングの傑作『トム・ジョーンズ』(1749年)という小説に詳しく描写されています。この小説にはじめて「スポーツマンシップ」(sportsmanship)ということばが使われ(『OED』による),その意味は「狩猟家」という意味でした。つまり,最初の「スポーツマン」は狩猟家だったということがわかります。そして,この狩猟家こそ,労働をする必要のない身分の人たちでした。つまり,全生活時間が自分の思うようになる階級の人たちです。言ってしまえば,「余暇」そのものが人生だった人たちです。
イギリス近代になって用いられるようになった「スポーツ」ということばも,じつは「暇つぶし」に狩猟をやっていた人びとから生まれてきます。そして,徐々に,自由時間を確保できる階級の間に「スポーツ」が溶け込んでいきます。そして,労働者の労働時間がどんどん減少されるにしたがって,労働者の「余暇」活動としてのスポーツが盛んになってきます。ですから,近代スポーツは,この「余暇」なしには誕生しなかった,というわけです。
もう一つ,加えておけば,ラグビー・スクールではじまったフットボール(のちのラグビー)も同じです。ラグビー・スクールは有名なパブリック・スクールですが,この学校のなかでフットボールのルールが整備され,技術や戦術が進化し,近代スポーツの礎を築いていくことになります。はじめは,学校の余暇時間に少年たちの自主的な活動として行われていましたが,校長のアーノルドはこれを積極的に「授業」として取り入れました。以後,この傾向は,多くのパブリック・スクールにも影響を与え,またたく間に普及していきます。
やがて,このフットボールが,「ラグビー」と「サッカー」の二つのボール・ゲームとして世界に広まっていきます。こうして,少なくとも「アマチュア・スポーツ」としての近代スポーツ競技は,「余暇」活動の一環として行われていたと言っていいでしょう。しかし,やがて「プロ・スポーツ」が誕生しますと,こちらは「経済原則」に絡め捕られた「近代スポーツ競技」として,別の顔をもつようになります。以後,こんにちまでのいきさつは,すでに,よく知られているとおりです。
このイギリスで誕生した近代スポーツ競技を日本に持ち込んだのも,じつは,日本の貴族たちでした。とりわけ,天皇家はスポーツ好きで知られています。いまの新宿御苑は,かつては高遠藩の江戸屋敷でしたが,明治以後は天皇家のための乗馬やテニスやクリケットなどの娯楽施設でした。あるいは,天皇家と貴族たちとの社交の場として,当時の最先端のスポーツが繰り広げられたところです。ですから,日本のスポーツもまた,たっぷりと「余暇」時間を確保できる人たちから,徐々に,下層階級へと広まっていきます。
面白いことに,スポーツが学校に最初に取り入れられたのは「大学」です。それから,徐々に,高等学校(旧制),中等学校,小学校へと広まっていきました。
このように,近代スポーツの普及という側面から眺めてみましても,余暇が大前提になっていると同時に,「学校」が大きな役割をはたしている,という点は注目しておいていいのではないでしょうか。このように考えてきますと,「余暇」ではなくて「本暇」ではないか,といいたくなってきます。が,それもちょっと変なことばですので,もっといい訳語をみつけることが必要ではないか,とわたしは考えています。
とりわけ,「3・11」を通過して,わたしの考える「後近代」に突入した,このタイミングを逃してはならないと思います。それは,同時に,近代が生み出した「用語」を,もう一度,根源から問い直すことの必要性をも意味しています。
かつて,「スポーツ史学会」を立ち上げるとき,「スポーツ」ということばそのものがきわめて「犯罪的」なことばであるから,学会の名前として用いるべきではない,と主張した人がいらっしゃいました。しかし,その議論はともかくとして,「スポーツとはなにか」という根源的な問い直しをする必要はあろうと思っています。しかも,喫緊の課題として。
その意味で,「余暇」ということばも,日本余暇学会としては,改めて俎上に乗せ,みんなで議論を積み重ねていくことが急務ではないか,と思います。また,そのことによって,さらに深い学問的な議論の地平が開かれてくるのではないか,と考えています。
長くなってしまいました。というところで,今日はここまで。
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