2014年6月4日水曜日

瞑想的太極拳ということについて。李自力老師語録・その45。

 先週につづいて今日(6月4日)の稽古での李老師のことばが,ようやくわたしのこころとからだにしみ込んできました。先週はこのブログにも紹介させていただきましたように,「意識引導動作」ということばでした。意識で動作を誘導していきなさい,とまあかんたんに言ってしまえばこういうことでした。それはことばとして頭のなかでは理解できても,実際に実行するとなるとこれはまた別ものです。まあ,そんなものなのだろうなぁ,とぼんやりと理解した程度でした。

 で,それだけではいけないと反省して,自分なりに考えて,もう少し深読みをするとこういうことになるのでは・・・・と解釈をしてみたものが先週のブログです。このブログについての李老師の感想はなにもありませんでしたが,その代わりに「瞑想的太極拳」ということについて諄々と説いてくださいました。たぶん,これがその応答なのだろう,とこれまたわたしの解釈です。

 それはおおよそつぎのようなことでした。
 まずはリラックスして全身を脱力させなさい。重心も高いまま,動作のことも気にしない,意識を瞑想状態にして,自分のなかにあるイメージに合わせて太極拳の「ふり」をしなさい。つまり,それらしい動作をしなさい。できばえの善し悪しはなにも考えない。できるだけ瞑想の世界に分け入っていって,こころとからだが融合する「場」を目指しなさい。そこにはなんとも表現のしようのない「心地よさ」が待っています。これを楽しみなさい。

 こういう話をされたのには,もちろん理由があります。それは,わたしの太極拳があまりに硬直したものであって,そこから抜け出せないでいる,これが第一の理由。もうひとつは,わたしの病気のことを李老師はことのほか気づかっていてくださり,消化器系の内蔵に負担をかけさせないで,しかも,治療に役立つ太極拳の方法を伝授すること,これが第二の理由。三つ目は,太極拳の最終ゴールはこの「瞑想的太極拳」にあることを気づかせること,これが第三の理由。

 こんなことが,李老師のお話をうかがいながら,わたしの頭のなかを経巡っていました。そうか,李老師はそこまでわたしのことを気遣ってお話をされているのだ,と。このことに気づいたときにはじめてこれまでとはまったく違う納得の仕方ができました。ひょっとしたら,李老師はわたしの病気を契機にして,太極拳の極意を一気に伝授しようとなさっているのではないか,と。これはまた大変なことになってきたなぁ,と嬉しくもあり,弟子としてそれなりの覚悟が必要だと身の引き締まる思いがしました。

 李老師はさらに,つぎのようにも話されました。
 なんにもしなくてもいい。椅子に座ったままでもいい。もっといいのは,ベッドの上に横になり,完全に脱力した状態です。その状態で瞑想的太極拳をしなさい。そうすれば,からだのすみずみまで気が流れ,心地よい状態に入ることができます。これがいまのあなたのからだにとって一番大事なことです。

 ああ,ついに「引導」を渡されてしまった,と思いました。
 これまでのような,気合を入れ,集中力を高めた太極拳の稽古はやってはいけません,と。

 もちろん,心優しい李老師はきつい言い方はなさいません。いつも,婉曲的に,やんわりと,これなら気づいてくれるかな,という探りを入れながら諄々と説いてくださいます。こと,ここにいたって,ようやく鈍感なわたしは気づいたということです。

 さあ,これからはもうひとつ別の次元の太極拳を目指して,心機一転,するりとその世界に入り込んでみようと思います。はたして,その結果やいかに。
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