2014年6月8日日曜日

「人間の集合体とは神々を造り出すマシンだ」(J.P.デュピュイ)についての私的読解。

 『聖なるものの刻印』──科学的合理性はなぜ盲目なのか(J.P.デュピュイ著,西谷修,森元庸介,渡名喜庸哲訳,以文社,2014年刊)を折に触れ読み,かつ考えている。訳者のお一人である西谷修さんによれば「J.P.デュビュイの思想の総集編であり,決定版」であるとのこと。別の言い方をすれば,「いま,世界で起きていることの根幹にかかわるもっとも透徹した思考」がそこに展開されているということである。

 それは書名からも明らかなように,「聖なるものの刻印」が,宗教性を排除したはずの科学的合理性のなかにもしっかりと引き継がれており,そのなによりの証拠が「科学的合理性」の盲目性だ,というわけである。つまり,科学が明らかにしたことはすべて正しいのだ,とする新たな信仰をそこに認めることができる,と。しかし,それは「間違っているのだ」とJ.P.デュピュイは断言している(P.5.)。

 序章・聖なるもののかたち,の冒頭で著者はつぎのように書き出している。
 「人類の歴史をざっと見渡してみたときにくっきりと浮かびあがるひとつの真理があるとすれば,それはまちがいなくこのこと,人間の集合体とは神々を造り出すマシンだということだ。なぜそういうことになるのか。そのマシンはどんなふうに機能するのか。このような問いが人間と社会に関する諸学の核心にあってしかるべきだろう」。

 いきなりわたしは躓いてしまう。しかし,気を取り直して,待てよ,とじっと考えてみる。そうしているうちに脳裏に浮かんできたことは,ジョルジュ・バタイユの「宗教の理論」のなかで展開されている理性出現の契機であり,P,ルジャンドルの「ドグマ人類学」という考え方だった。この二つの思想を導きの糸として,J.P.デュピュイのこの考え方に分け入ってみる。

 たとえば,ヒトが人間になるとき,つまり,動物性(内在性)の世界から<横滑り>して,自他の区別に目覚めるとき,人間は他者の存在をとおして自己を考えはじめる。このとき以来,人間は,人間の生を導き,支える理性に軸足をおくようになる。しかし,みずからの理性だけでは解決しえない問題がつぎからつぎへと出現する。かくして,自己を超越する他者の存在に対して,いかんともしがたい「聖なるもの」を感知するようになる。やがて,それらの「聖なるもの」の存在を「神」と名づけ,自己の存在不安をその「神」によって救済することを学ぶ。

 このようにして展開していく思考の詳しいプロセスはここでは割愛せざるを得ないが,人間は根源的な存在不安を解消するためのひとつの方法として,さまざまな集合体を形成する。そして,この集合体が共有し,安心立命することのできる「神々」を,集合体ごとに造り出す。その神々も,時代や社会の変化とともに集合体も変化し,それぞれの集合体に対応する新たな神々へとさまざまに変化していくことになる。まさに,「人間の集合体とは神々を造り出すマシン」そのものであることがわかってくる。

 一足飛びに飛躍するが,科学的合理性もまた,前近代から近代へと移行する原動力としての役割を果たし,いつしかわたしたちを支配するあらたな信仰となって,こんにちのわたしたちを睥睨している。それは,前近代までの神々にとって代わる新しい「神」そのものだ。だから,科学的合理性は「盲目」になるしかないのだ。それはドグマ(教義)なのだから。

 とまあ,かなり強引に乱暴な私的読解をしてしまったが,このことの確認ができれば,あとの読解もそれなりの展望が開けてくるに違いないと信じたい。

 以上,この稿,未完。
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