2014年6月24日火曜日

6月23日・沖縄慰霊の日に思うこと。

 第二次世界大戦で,日本がどんな戦争を行い,どんな結末だったのかという,いわゆる戦争の記憶(反省)をもつ人が年々減っていく。これはある意味で仕方のないことではある。しかし,この記憶(反省)をしっかりとつぎの世代に継承していくことをわたしたちの世代は忘れてはならない。が,現実は寂しいかぎりである。

 たとえば,6月23日・沖縄慰霊の日を,わたしたちはどの程度に骨肉化しているだろうか。つまり,この日を迎えたとき,わたしたちはどのようにこの記憶をふり返り,そこから導き出された教訓を胸に刻み,これからの生き方に結びつけていくことができているのか,という反省である。そのことは同時に,多くの人が支持しているという現政権が目指しているものとの大いなる齟齬を,どのように考えているかという問題でもある。

 沖縄で多くの人びとの命が奪われた6月23日の激戦(沖縄島民の3人にひとりが犠牲になった)を迎えるはるか以前から,すでに日本の敗戦は明らかだった。にもかかわらず,猪突猛進して行った当時の政府および軍部の動向を止めることはできなかった。だから,このあとも,ヒロシマ,ナガサキの原爆による,まったく無駄な多くの犠牲者を出すことになってしまった。そして,ついにはポツダム宣言を受諾して「無条件降伏」という屈辱の事態を招くことになった。(少なくとも,早めに手を打てば,「条件付き降伏」というレベルで治めることができたはず。後の祭り。)

 その延長線上に,戦後の沖縄の歴史ははじまる。というより,沖縄にはいまも戦後はない。つまり,戦争がつづいているのである。ポツダム宣言後のアメリカによる統治(1972年まで,沖縄の人びとはパスポートをもたなければ本土にわたることもできなかった,つまり,日本国ではなかった),朝鮮戦争,ベトナム戦争,アフガンからはじまる中東の騒乱(アメリカによる一方的な介入),そしてこんにちの基地移転問題へと,息継ぐいとまもないほどの緊張が,いまもつづいている。

 こうした事態の連続を,沖縄の人びとはひたすら耐え,そして,ときには闘い,こんにちを迎えている。いまもこの厳しい状況がつづいている元凶は,わたしたちヤマトンチュにあるとわたしは受け止めている。つまり,ヤマトンチュのほとんどの人間が,この厳しい現状を「みてみぬふり」をしてやりすごしてきた,というやりきれない慙愧の念がわたしのこころの片隅に巣くっている。

 日米安保条約も,そしてそれよりもっと恐ろしいと言われる日米地位協定も,米軍基地も,そのほとんどを沖縄に「おんぶにだっこ」してもらって,ヤマトンチュはのうのうとみせかけの「平和」に酔い痴れている。日本の国土の0.7%しかない沖縄に米軍基地の70%以上もの負担を押しつけておいて,なおかつ,「みてみぬふり」をしている。のみならず,半永久的に米軍基地を沖縄に押しつけたまま,平然としている。

 そんな現政権のリーダーであるアベ君が,「沖縄のためになることならなんでもやる」と,こともあろうに沖縄慰霊の日に参列し,なみいる沖縄島民を前にして,いつもの,そして,得意の大嘘を,平然と言ってのけた。「金目」をちらつかせれば,沖縄県知事ですら「転ぶ」。このことに大いなる自信をもってしまった,いまや「病」としかいいようのない暴言である。

 アべ君は,沖縄に米軍基地を置くことが沖縄県民のためになる,と信じて疑わない。だって,これまでも「金目」で潤ってきたではないか,と。そのことを声高らかに宣言したようなものだ。このことは,原発設置のときの地域住民を説得してきた手法と同じだ。原発は地域住民のためになる,なぜなら「金目」がついてくる。だから,イシハラ君までも「金目」という本音をついうっかりもらしてしまった。この人たちは,人間の命を「金目」で交換することができると信じているらしい。

 勢いあまって,いささか脱線してしまった。

 いわずもがなではあるが,人間にとって一番大事なものは「命」だ。戦争は,この一番大事なものを,遠慮会釈なく奪い去る。だから,なにがなんでも戦争だけは回避しなくてはならない。その教訓を現政権はすっかり忘れてしまっている。のみならず,日本国は第二次世界大戦で「無条件降伏」をした敗戦国であるということまでも,忘れてしまったかのようだ。もっと言っておけば,中国はポツダム宣言に署名した戦勝国であるということも,すっかり忘れてしまったようだ。

 中国に喧嘩を売るということは,アメリカに喧嘩を売るということと同義だ。そんなことも忘れて,尖閣諸島で,わざわざ「ことを構え」ようとしている。集団的自衛権の問題に関して,もっとも緊張感をもって見守っているのは沖縄の人びとだ。その沖縄県民に向かっての,あのアベ君の宣言(暴言)である。「沖縄慰霊の日」がどういう「日」であるのか,アベ君が一番わかってはいない。そのアベ君を支持する多くの国民もまた重篤なる「病」に犯されているとしかいいようがない。

 沖縄県民に会ったら抱きつきたい,とあるシンポジウムで発言した知識人がいたが,けだし名言。しかし,だからといって問題が解決するわけではない。それはあくまでも個人的な情緒の問題だ。沖縄慰霊の日にあたって,この発言をした知識人はいったいなにをいま思っているのだろうか,と考えてしまった。

 沖縄慰霊の日は,たった一日だけ,多くのメディアも反応したが(ケネディ大使が参列したことに反応したというのが本音ではないか),それが終わればまたもとの木阿弥。メディアは朝からサッカーW杯関連の情報ばかりを垂れ流し。現政権の意をくんで(自発的隷従),国民を「無思考」にするために大奮闘。もちろん,フクシマには目もくれず。

 かくして,日本国は「破局」(カタストロフィ)に向かって一直線。臭いものには蓋。

 わたしたちがいま最優先して考えなくてはならないことは,フクシマとオキナワである。たぶん,こんなことはみんな知っていることだ。問題は,「みてみぬふり」をする「病」の方だろう。アベ君を筆頭に,この「病」にかかった人びとを強制的に「入院」させなくてはならない。そのために,わたしたちは,いま,なにができるかを考えなくてはならない。

 沖縄慰霊の日をきっかけに,オキナワとフクシマをセットにして,これからも考えていきたいと思う。それが,悲惨な「戦争」から学んだ教訓を生かす道だと信ずるから。すなわち,「命」の大切さを基準にして,ものごとをリセットすること。そのことが,いま,ここにきてしまった「未来」(西谷修)を,少しでも押し返すための,第一歩だと信じて。
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