2014年6月29日日曜日

日曜美術館:東松照明・沖縄に恋した写真家の謎を追って,をみる。

 毎週,楽しみにしている日曜美術館が,このところ雑用にまぎれて久しくみることができませんでした。が,今夜はうまくタイミングが合って,嬉しいかぎり。しかも,わたしの好きな写真家・東松照明さんの特集でした。

 午後8時はわたしの夕食の時間。しかし,食事をするのも忘れて,ノートにメモをとることに追われながらの鑑賞でした。冒頭から,顔なじみの仲里効さん(わたしの娘も可愛がってくださっている)が映像批評家という肩書で登場し,わたしなどの知らない東松照明さんの骨格というか,輪郭を,いつものように慎重にことばを選びながら語ってくれました。この入り方がわたしにはとても心地よく響いてきて,一気に番組にひきこまれていきました。

 東松照明を語る写真家・森山大道さん(『ブラジルのホモルーデンス』(今福龍太著の表紙カバーの写真を撮った人。なんと群衆の腰からしたの「足」ばかりを撮った傑作。サッカー批評原論の本ですので,まことにピッタリ)の話も,なるほどなぁ,と感じ入りました。「対象が醸しだすあいまいなものを写し撮る感性が写真の新しい時代を切り拓いていった」(名取洋之助を乗り越えて)や「自分が裸になることによって,対象もまた裸にみえてくる。そして,写真を撮らされていたのではないか」と語り,とりわけ,東松照明の写真集『太陽の鉛筆』をとりあげて,「写真の原質のようなものを感じる」と語ったことばが印象に残りました。

 番組の終わりの方では,今福龍太さん(この三月にわたしの研究会でお話をしてくださったばかり)が登場し,『太陽の鉛筆』の復刻版の編集作業の現場を背景にして,この東松照明の傑作のもつ意味を語ってくれました。近く復刻版が刊行されるようですので,楽しみです。この写真集に今福さんがどのような解説を加えるのか,いまからどきどきしています。

 とてもいい番組だったなぁ,と満足して,ふたたび食事にとりかかりました。が,突然,あっ,あの番組はどこか変だ,と気づきました。なぜか,わたしの理解していた東松照明のイメージの半分が欠落しているではないか,と。それは,沖縄の古くから伝承されている祭祀儀礼に注目し,そこになみなみならぬ情熱を傾けた東松照明の立ち位置とその評価です。たとえば,よく知られているように,いまは絶えてしまったという久高島のイザイホーの祭祀儀礼を撮った素晴らしい仕事には,この番組はひとことも触れていないのです。12年に一度の,それこそ沖縄の原初の信仰形態であり,ウチナンチュの原質をかたどっているともいわれる,海のかなたからやってくるカミとそこに生きる人間との関係,折り合いのつけ方,あるいは,母系社会の残像といえばいいのだろうか,いわばウチナンチュの「根っこ」となっているもの,ここにこそ東松照明の「恋した沖縄」の純粋無垢の対象があったのではないか,とわたしはひとりで納得していたのですが・・・・。わたしにとっては,そのもっとも重要だと思われるウチナンチュのこころの支えの問題が,この番組ではすっぽりと抜け落ちてしまっているではないか,と。

 ディレクターがだれであったのか,控えるのを忘れてしまったことが悔やまれる。もちろん,いまから調べればわかることではありますが・・・。

 なにを言いたいのか。

 NHKの報道の,最近の目にあまる偏向ぶり(政府の圧力とNHKの自発的隷従による思想コントロール)が,こんな番組にまで浸透しているのか,と気づかされたことにいまさらながらびっくり仰天している,ということを。こんなところにまで触手をのばして,情報コントロールをし,国民を無意識のうちに「洗脳」しようという許されざる公共放送の,これはもはや「犯罪」としかいいようのない恐るべき悪魔の手を,そこに垣間見てしまった,ということを。

 もうすでに,戦前の治安維持法の時代が,さきどりしたかたちではじまっている,としみじみ思った次第です。3・11を通過することによって,日本はそれまでの過去を清算し,まったく新しい国へと向かうものとばかり思っていたら,気づいてみれば,一気に戦前への転向でした。その悪魔の手が,こんなアートの世界を鑑賞する番組にまで,すでに伸びてきているとは・・・・。

 折角の番組の感動が,いつのまにか色あせたものになってしまいました。そして,東松照明さんを傷つけ,この番組に登場し,丁寧な解説をしてくださった仲里効さん,森山大道さん,今福龍太さんまで巻き込んで,傷つけてしまっていることに,わたしとしては複雑な気持でいっぱいです。

 これからのテレビへの対応に苦慮することになりそうです。そして,その恐ろしい時代の足音が次第に現実となりつつあります。困ったものです。のみならず,サブイボが立ちます。

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