2014年6月3日火曜日

『新版・古代の地形から「記紀」の謎を解く』(嶋恵著,海山社,2013年刊)を読む。

 入院中はたっぷりと時間がありましたので,本ばかり読んでいました。その中の一冊がこれ。この本は最初から最後まで一気に読んでしまいました。いつもですと,2,3冊,同時に,そのときの気分によってとっかえひっかえしながら読むのですが,この本は読み始めたらもう止まりませんでした。それほどに,意表をつく発想と,綿密なフィールドワークと,中国,朝鮮との交流史を視野に入れた分析と,それになにより並外れた直感的な推理力と,それを実証する洞察力と,そして豊富な読書量と,それらのすべてを束ねていく明解な文章力とが相まって,わたしを惹きつけて離しませんでした。

 略歴をみるかぎり,いわゆる古代史の専門家でもなんでもなく,民間の古代史愛好家の,それもとびきりの愛好家の方とお見受けしました。ですから,いわゆる古代史研究のアカデミズムの世界とはなんの関係もなく,ひたすら自分の興味・関心だけが原動力になっています。その謎解きの基本は,自分のなかに生まれる素朴な疑問を大切に守りながら,自分の納得のいく答えを素直に導きだすこと。他人がなんと言おうと,このわたしが納得できればいい・・・と。

 ですから,手段を選ばず,みずからの疑問の謎解きのためにはあらゆる方法を駆使します。それがまた,つぎからつぎへと面白い方法を見つけ出してきて,それを当てはめてみて,そこからまたつぎの発想を生みだしていきます。この柔軟な発想が,アカデミズムの世界を睥睨しながら,悠々と天空高く舞い上がり,古代史全体を俯瞰する世界を構築していきます。ですから,これまでの古代史研究とはまったく次元の異なる,みごとなまでの新しい世界を切り拓き,まったく新しい結論(新仮説)に到達します。そのすべてをここで紹介することはとてもできませんので,その中の冒頭にでてくる発想に注目してみたいと思います。

 著者はまず,古い神社(式内社)の多くが,どこもかしこも小高い山の中腹に建てられているのはなぜか,と疑問をいだきます。同時に,古代の奈良の古道として知られる「山辺の道」もまた山の中腹を縫うようにしてつづいていることに気づきます。ここからが,著者の面目躍如というところです。ひょっとしたら,古代の海はいまよりも海面が高かったのではないか,と思いつきます。そして,古代の地形を調べてみたら,たしかに,いまよりも海面が相当に高かったのではないか,という事実をつきとめます。

 この事実をもとに,現代の地図の海面を10m高くしたり,20m高くしてみたり,さらには60mも高くしたりしてシュミレーションしてみると,現代の平地はほとんどすべてが水浸しになり,あちこち入り江や干潟だらけになることがわかってきます。そして,古い神社が小高い山の中腹に存在することの謎が解けてきます。つまり,古い神社はその時代の海面に合わせて建てられていた,というわけです。

 この発想を,古代の奈良時代以前に応用してみると,なんとこんにちの大阪のほとんどは海に埋没してしまい,京都も奈良もみんな海につながっていたことがわかってきます。平地は海または干潟に,川筋は入り江に,そして,丘陵地帯が小さな島々となって転々とあちこちに浮かび上がってくることがわかってきます。

 このことを確認した上で,こんどは地名に着目します。すると,いまはほとんど山の中であるにもかかわらず,そんなところに海にかかわる地名が散在していることがわかってきます。ということは,かつてはそのあたりにまで海が入り組んでいたという,その痕跡をとどめているのだ・・・・と。

 こうした作業を重ねた上で,もう一度,奈良の「山辺の道」を確認してみますと,この道がつくられたころの奈良はいまよりも約60mも海面が高かったのではないか,と推定されます。これを前提にして,奈良の古代遺跡を確認してみますと,すべてこんにちの高台,あるいは山の中腹に散在していることがわかってきます。なるほど,奈良盆地は古代は海だったのだ,と。そして,やがて海面が下がるにしたがって海水が引いていき,やがて干潟となり,葦の生い茂る沼地となり,葦原の中つ国と呼ばれるようになっていく経緯もなっとくです。

 そして,豊葦原の瑞穂の国と呼ばれた謎もみごとに氷解してしまいます。そのころにはもう立派な水田が広がっていたことでしょう。こうして,ヤマトは古代日本の都として栄えていくことになります。しかも,このヤマトを最初に支配し,王宮を営んだ王がオオクニヌシというわけです。

 こうして,著者は「記紀」の謎解きに入ります。すると,これまでのアカデミックな手法では手も足もでなかった『古事記』に秘められた謎もつぎつぎに明らかにされていきます。その説得力にまずは感動してしまいます。

 そして,ついには,とうとう「オオクニヌシは6人いた」ということをつきとめています。しかも,その最後のオオクニヌシがトミノナガスネヒコである,と。

 ここにいたりついたとき,わたしの中に長い間,わだかまっていた大きな疑問のほとんどは瓦解してしまいました。やはり,そうだったのか,これまでトミノナガスネヒコという人物の存在に注目して,その痕跡を訪ね歩いたのは間違いではなかった,と。

 これからはこのテクストを軸にして,わたしなりの古代史の謎解きをつづけてみたいと思っています。その一部はこのブログにも書いてみたいと思います。いよいよ,さぐりを入れてきたわたしの「出雲幻視考」も佳境に入っていくことになりそうです。その意味で喜びもひとしおというところです。

 ということで,今日のところはここまで。
 
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