2014年6月17日火曜日

「パニックの由来である牧人(パン)たちの神パンは,半人半獣(山羊),素晴らしい音楽家,分け隔てなき者,大のニンフ好き」(J.P.デュピュイ)。

 表記の文章は,J.P.デュピュイのテクストからわたしが切り取って手を加えていますので,もともとの文章をその前の部分も含めて転記しておきたいと思います。

 ヒエラルキー的秩序の崩壊に伴う危機には,ギリシア神話から伝わるひとつの名前がある。パニックという。神話はもちろんのこと外部性しか見ておらず,暴力的な解体の科(とが)をパンという神に負わせる。だからパニックの原因はパンだということにされる。その名の由来でもある牧人(パン)たちの神パンは,半人半獣(山羊),すばらしい音楽家,分け隔てなき者,大のニンフ好きで,かれが藪の陰から現れると,それが不意の恐慌を引き起したと伝えられる。(P.12.)

 「ヒエラルキー的秩序」については,きわめて重要な概念ですので機会をあらためて考えることにして,ここでは「パニック」に焦点を充ててみたいと思います。

 「パニック」の語源がギリシア神話に登場する神パンにあることは,恥ずかしながら,知りませんでした。ですので,そのあとにでてきます「神パンは,半人半獣(山羊),すばらしい音楽家,分け隔てなき者,大のニンフ好き」という紹介に,目が釘付けにされてしまいました。「半人半獣」は多くの絵に描かれていますので,これは承知していました。それと「大のニンフ好き」というのもなんとなく承知していました。しかし,「すばらしい音楽家」と「分け隔てなき者」ということは不覚にも承知していませんでした。とりわけ,「分け隔てなき者」という説明には「ギクリ」とさせられました。これはいったいどういうことを意味しているのか,と。

 そこで,はたと思い出したのは,画家のピカソが絵のモチーフの一つとして「半人半獣」を好んで登場させ,多くの作品を残していることでした。そうして,そればなぜだろう,とぼんやり考えてみました。すると突然,あっ,そうか,ピカソは「半人半獣」の神パンが大好きで,ある特別のシンパシーを感じ取っていたのに違いない,と気づきました。そして,同時に,ひょっとしたらピカソ自身がみずからを「半人半獣」だと自覚していたのではないか,と。だとしたら,「半人半獣(=人間),素晴らしき画家,分け隔てなき者,大のニンフ好き」=パブロ・ピカソ,という等式が成立することになります。つまり,神パンは自分自身の分身だ,とピカソは認識していたのではないか,と。

 ということは,「半人半獣,素晴らしき〇〇〇(学者,企業家,宗教家,アスリート,などなんでも可),分け隔てなき者,大のニンフ好き」という具合に普遍に開いていくことができるのではないでしょうか。ということは,神パンとは,人間の剥き出しの姿であり,ある意味での人間の「理想」の姿を「外部化」した象徴ではないか,というように見えてきます。

 ということは,わたしたち人間は,「分け隔てなき者」にはなかなかなれませんが,少なくとも「素晴らしき〇〇〇」にはなりたいと日々努力を惜しみません。近代社会は「素晴らしき〇〇〇」になるべく,努力せよと教え,「勤勉のエートス」(マックス・ウェーバー)なるものに価値をおいてきました。その結果が,こんにちのわたしたちの姿(=人間の姿をした脱け殻)以外のなにものでもありません。なぜ,そうなってしまったのか。

 それは,第一には,わたしたち近代人はすべからく「半人半獣」であることを恥ずべきこととしてひた隠しにしてきたこと,第二には,「大のニンフ好き」であるにもかかわらず,さもそうではないかのように振る舞うことを美徳としてきました。第三には,「分け隔てなき者」は口では高く評価しつつも,それを実現し,讃える文化装置をどこかに置き忘れてきてしまいました。それは科学的合理性とは相容れない要素だったからです。

 しかし,この事態はどうも近代にはじまったことではなく,ギリシア神話の時代にすでに,人間は本来のありのままの姿をどこかにひた隠しにする習性をいつのまにか身につけていたのではないかと思います。ですから,人間本来の剥き出しの姿=「半人半獣」の姿のまま,それをひた隠しにして慎み深く生きている人びとの前に突然現れると,人びとはびっくり仰天して,恐慌状態になり,パニックを起こした,ということなのでしょう。

 この習性はこんにちのわたしたちにも「刻印」され,継承されているといっていいでしょう。しかし,わたしたち自身もまた本来は「半人半獣」であることをすっかり忘れてしまって(あるいは,けしてそんな存在ではないと信じているかもしれません),野蛮で,獰猛な,変な生きものとして,つまり,完全なる「他者」として,自己から排除し,隠蔽してしまっている,といっていいでしょう。ですから,こんにちでも「半人半獣」がそのままの姿で目の前に突然現れたら「パニック」になるでしょう。

 つまり,パニックとは,人間の内なる他者,すなわち「獣性」が剥き出しのまま,ある打撃を加えられることによって,みずからの「獣性」が喚起され,一気に噴出すること,そういう経験の謂いだということになります。この問題はここではこの程度にして収めておき,また,いつか,スポーツの場面に引きつけて,もっと躯体的に深く考えてみたいと思います。

 ここでは,わたしたち自身が「半人半獣」であるということを包み隠さず認識し,可能なかぎりありのままの自分を生きることを心がける人でないかぎり「分け隔てなき者」にはなれないのだ,ということを強調しておきたいと思います。ピカソもまた,その意味で,ぴったりの人物だったということもできるのではないでしょうか。

 わたしたち人間は,どこまでいっても,半分は「獣」であることから解放されることはありません。ですから,「全人」と「全獣」との間を人目をはばかりながら,往復しつつ「生」を営んでいるというのが正直な姿なのでしょう。つまり,人間は「人」と「獣」という相容れない要素を「含みもつ」(contenir)存在である,というわけです。「含みもつ」(cotenir)というフランス語には「くい止める」「抑え込む」という意味内容があるということですので(デュピュイ),わたしたち人間としての存在様態を表現することばとして,みごとなまでにぴったりであることがますます明瞭になってきます。

 ここまで考えてきますと,なんだか,喉にひっかかっていた魚の骨がポロリと取れたような爽快感にひたることができるのではないでしょうか。

 じつは,この「含みもつ」ことが,デュピュイが重視するデュモンの「ヒエラルキー」の概念の中核をなしていて,人間の社会を安定的に構成するためのキー概念である,ということのようです。この問題については,稿をあらためて考えてみたいと思います。
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