2014年6月20日金曜日

『アフター・フクシマ・クロニクル』(西谷修著,ぷねうま舎,2014年6月20日刊)を読む。

 今日(6月20日),書店にならぶ予定の本を3日前の18日に,著者の西谷さんから直接,手わたしでいただきました。ありがたいことです。いつも,西谷さんは新刊がでるとすぐにプレゼントしてくださいます。それも,著者見本として印刷・製本されたばかりのほやほやの本が出版社から著者にとどいたばかりの,とっておきの本のおすそ分けです。なんと栄誉なことか。

 『アフター・フクシマ・クロニクル』。これまでに書きためたものに書き下ろしを加えて一冊にまとめてみました,というのが西谷さんの第一声でした。それが下の写真の本です。


 そういえば,3・11以後,西谷さんは足しげく被災地に通い,現場に立ち,肌で風を感じ,自分の眼で確かめ,自分の耳で被災者の声を聞き,そして自らの思考を重ねてこられたことを,わたしは身近にいて知っていました。そして,主として月刊誌『世界』に論考をしばしば寄せられ,それを読むたびに,そのつど深く考えさせられたこともまだ記憶に新しいところです。加えて,ブログをとおして,こまめにそのときどきの思考の進み行きを吐露されていました。それを読むのも,わたしの日課になっていました。そのころのブログに「何だか毎日書くはめに」というタイトルのものがあって,ニンマリと笑ってしまったことを覚えています。そのブログもこの本のなかに収載されています。その日付をみると〔2011.4.19.〕となっています。

 この本のタイトルとなった第二章は,「烈震,日本を変える未曾有の危機」〔2011.3.15.〕からはじまり,「原発維持のあらゆる口実は破綻」〔2011.7.28. 〕までの4カ月余の,まさに「クロニクル」として書き綴られた断章からなっています。そこに,「すべて世はこともなし」〔2011.11.20.〕を加えて,第二章だけで100ページ余を占めています。一人の思想家が,日々,どのようにして思考を深め,格闘しながら,みずからのスタンスを模索し,確立させていくのか,その足跡が手にとるように伝わってきます。

 わたしは,この「クロニクル」のほとんどをすでに読んでいたはずなのに,こうしてまとまって提示されると,ふたたび新たな命を吹き込まれた(「ぷねうま(舎)」)かのように,これらの文章が躍動し,新たな意味を帯びてわたしに迫ってきます。そして,同じ時間を過ごしたはずのわたしの「クロニクル」はどうだったのか,と深く反省を迫られもします。

 この本は,この第二章をメインに据えていますが,序章 「未来」はどこにあるのか,第一章 文明の最前線から,で西谷さんの立ち位置が明確に示されています。その上で,第二章を置き,つづいて第三章 核技術のゆくえ,第四章 地震に破られた時間,または手触りのある未来,終章 ここにある未来──ジャン=ピエール・デュピュイとの対話,という具合に展開しています。こうして,わたしたちが,いま,どのような情況のもとに生きているのか,をもののみごとに分析してみせてくれています。そして,遠いさきにあるべきはずの「未来」が「破局(カタストロフィ)」という姿で目の前に出現してしまった「いま」,わたしたちに残された道は,この「破局」をいかにして「さきのばし」にすることができるか,ここに全知全能を傾けるべきではないか,と西谷さんは主張されているように,わたしは受け止めました。

 お薦めの一冊です。ぜひ,書店で手にとってみてください。今日(20日)発売です。

 最後に,表紙カバーの折り返し(内側)のところにあるコピーを引いておきたいと思います。

 大洪水があらわにしたもの,それは隠されていた社会と文化の根だった。
 逃げず,囚われず,全力で破局と対決する,危機の思考。

 あのとき,社会はどう動き,政治は何をし,文化はどんな顔をしてみせたか。
 刻々と移ろう状況と真剣に向き合うこと,それがそのまま思想の崖っぷちに
 立つことだった。見る間に決壊したのは,豊かな資本主義,科学文明の進歩,
 明るい未来という幻想だ。そして人びとは,瓦礫となった世界像を前に,
 新しい価値を手探りしなければならない。

 千年の曲がり角の由来と,生きることの意味を探す。破局のドキュメント。

 以上です。
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