2014年6月14日土曜日

「スポーツ大会は,それを活気づかせている競争熱がある限界を超えてしまうと大混乱になる」(J.P.デュピュイ)。

 表題にかかげたJ.P.デュピュイの文章はいささか圧縮してあるので,もう一度,テクストどおりの文章をここに引いておきたい。

 スポーツ大会は,地震に襲われてもパニックに抵抗するが,それを活気づけている競争熱がある限界を超えてしまうと,死者が出るような大混乱になるはずだ。(P.13.)

 以上がデュピュイの書いた地の文章である。かれは,デュモンの提示した「ヒエラルキー」(聖なる秩序)について詳細に分析したのちに,パニックが起こるのは「ヒエラルキー」(聖なる秩序)の崩壊にその原因があると指摘した上で,そのサンプルとして「スポーツ大会」の折にしばしば起こるパニックについてとりあげている。

 この文章で興味深いのは,スポーツ大会が地震に襲われたときのパニックにはかなりのレベルで抵抗する能力を人びと(人間集団)は持っているが,スポーツ大会を活気づけている競争熱(熱狂)がある限界を超えてしまうと,もはや,手のつけられない(死者がでるような)大混乱になるはずだ,と推理している点である。

 このことは,いまはじまったばかりのサッカーW杯のことを念頭におくだけで,容易に理解することができる。サッカー場では,これまでにも観客を定員以上に入れてしまったためにスタンドが崩落して大混乱になった,というような事例はいくらでもある。しかし,この場合の混乱はその場でなんとか収めようとする人間集団の力学がはたらく。しかし,過剰な競争熱や熱狂がある限界を超えてしまうと,これはもはや押さえがきかなくなり,コントロール不能に陥る。その上,しばしば,サッカー場の外にでてからもつづき,さらに街頭にまで広まっていくことも少なくない。フーリガンと呼ばれる人たちの行動がそれである。

 では,なぜ,フーリガン的な無秩序な振る舞いが,ある日,突如として現出することになるのか。その引き金を引くきっかけはなにか,これまでにもさまざまな研究があり,諸説が並び立っている。しかし,なるほどと得心のいく説明にまだ出会ったことがない。その点,デュモンの「ヒエラルキー」(聖なる秩序)の考え方を援用したJ.P.デュピュイの思考のレベルまで掘り下げていくと,これまでとはまったく違ったフーリガン問題に関する新たな知の地平が浮かび上がってくる,ということがわかり,いささか興奮してしまう。

 以下は,J.P.デュピュイの言説に寄り添いながら,わたしなりの解釈とそれに基づく推論を展開してみたものである。

 パニックを引き起こす要因は,それを封じ込むための法秩序のなかに,あらかじめ「含み抑えられて」いる。だから,ひとたび,熱狂がある限界を超えてしまうと,法秩序のなかに「含み抑えられ」ていた「内的な悪」が一気に噴出してくる。しかも,それは「全幅の破壊的力をもって広がるのだ」という。そして,ついには「死者の出るような大混乱」になるはずだ,とデュピュイはいう。「魔物が瓶から飛び出したのだ」と。

 そして,さらにデュピュイはつぎのように論を展開していく。

 「それぞれの人間の混乱した振る舞いと出現する秩序とのあいだで,関係は自己超越のかたちをとる」。(P.13.)

 つまり,出現途上の秩序は個々人の振る舞いをみかけ上の外部から統御するように見受けられるけれども,じつは,それは同じ個々人の振る舞いが協働した結果なのだ,という。つまり,人びとの無秩序な振る舞いは自己超越のかたちをとる,と同時に,出現する秩序もまた自己超越のかたちをとる,というのである。別の言い方をすれば,個々人の振る舞いは無秩序そのものであるけれども,新たに生まれつつある秩序はそれをも「含みもつ」というのである。この場合の「含みもつ」には二重の意味がある。一つは,「くい止める」,もう一つは「抑え込む」(すべて,contenir という同じフランス語)という意味である。つまり,秩序は無秩序をも「含みもつ」,このとき起きていることは自己超越である。

 しかも,そこで起きていることは,「自分とは反対の無秩序を含んだ秩序なのではなく,規制されるべく自分から距離をとった無秩序,自分の外部に身を置いた無秩序なのである」(P.13.)という具合である。ここまでくると,無秩序が単なる無秩序ではなく,自己超越した無秩序であることがわかってくる。そして,この自己超越した無秩序に,デュピュイは「聖なるもののかたち」を見届けている。

 一般に祝祭空間で繰り広げられる「馬鹿騒ぎ」のような,一見したところ無秩序(カオス)にみえるものも,その内実は,じつは,カオスとノモスのせめぎ合いであると同時に,お互いに自己超越しながら「協働」している,そういう関係なのだということがわかってくる。「聖なるものの刻印」の奥は深い。

 近代の法秩序は,前近代までの「聖なるもの」の力を全面的に否定して成立しているかにみえるけれども,じつは,前近代の「聖なるもののかたち」をしっかりと引き継いでいるということなのだ。もっと言ってしまえば,むかしから人間の考えること,やることは,根源的にはなにひとつ変わってはいない,ということのようだ。

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