2013年5月15日水曜日

桓武天皇の生母「高野新笠」は菅原伏見に住み,土師臣の出であるとか?(出雲幻視考・その2.)

 最初にお断りをしておきますが,この「出雲幻視考」のシリーズは,あくまでも「幻視考」であるということです。つまり,こうとも言える,ああとも言える,というあまり根拠のしっかりしない世界をわたしの直観だけを頼りに「幻視」したものを描き出す,ただそれだけのものである,ということです。ただし,わたし自身はそこにかなりの「信」を置いている,ということも白状しておきます。ですから,半分は遊び,そしてあとの半分は本気です。このあたりのバランスが古代史に分け入るにはちょうどいいのではないか,と自分を納得させています。

 そこで,今日の本題へ。昨日のブログで桓武天皇のことを書きました。当然のことながら,桓武天皇の「生母」とはどういう人だったのか,という疑問が湧いてきます。わたしは日本の古代史についてはずぶの素人ですので,なにからなにまで初めて読むことになる文献ばかりです。ですから,わたしにとっての発見は,古代史に関心をもつ人びとにとっては,すでに常識になっていることかもしれません。が,そんなことを気にしていては,せっかくのわたしの「遊び」が台無しになってしまいます。そこは幼児の「遊び」よろしく,素直に思ったままを,想像力たくましく展開してみたいとおもいます。そのためには,どこまでも,なにものにも縛られることなく,自由気ままに「幻視」していきたいとおもいます。

 さて,桓武天皇の生母の名前は「高野新笠」(たかののにいがさ)。

 いまさら,断るまでもなく,父は百済の武寧王の末裔。わたしの関心はそちらにはなくて,新笠の母,大枝真妹。なぜなら,大枝氏(大江氏)は土師臣を名乗る野見宿禰の系譜に連なる人だからです。そこから新笠が誕生し,やがて,天皇の母となり,のちの時代に大きな影響を及ぼすことになるという,この話の方にわたしの興味・関心が向かいます。事実。桓武天皇が長岡京に都を移すのも,その地が桓武天皇の祖母である大枝真妹の拠点であったことと無縁とは考えられません。つまり,長岡京は土師臣・大枝(大江)氏が勢力を張っていたところである,ということがわたしの大きな関心事です。つまり,この時代には,すでに,土師氏を名乗る一族はとてつもなく大きな勢力を全国的に張りめぐらせていた,と考えられるからです。

 しかも,大枝真妹の娘である高野新笠が,女御として朝廷に仕えたときには,平城京のすぐ西側に位置する菅原伏見に住んでいたといいます。菅原伏見といえば,野見宿禰が垂仁天皇から拝領し,土師臣の官職をいただいた由緒あるところ。つまり,土師氏の出発点は,ここ菅原伏見であること。ですから,野見宿禰を召し抱えた垂仁天皇の御陵は,ここ菅原伏見にあり,その名も「菅原伏見東御陵」と呼ばれています。近鉄西大寺駅から近鉄電車に乗って南に迎えば,唐招提寺や薬師寺の手前の右側に立派な御陵がみえてきます。

 まさに,野見宿禰の拠点であった菅原伏見から高野新笠が朝廷に出仕していたというのは,土師氏の一族ということから考えれば,なんの不思議もありません。しかも,桓武天皇の幼少時,つまり,山部皇子の時代には,ここ菅原伏見で育てられたらしい。

 高野新笠の「高野」の字(あざ)は,こんにちの「高の原」に比定されています。高の原は,菅原伏見の北部,いまでいうと京都府と奈良県の府県境に位置しています。この地は,いまは,両府県の共同開発によって開かれた新興の文化都市になっています。ちょうど,わたしが奈良県中山町(高の原と秋篠寺の間,もちろん菅原伏見にふくまれる)に住んでいたころに,新興の町「高の原」の開発がはじまったばかりでした。ですから,このあたりは,しばしば散歩にでかけて開発の推移を遠くから見守っていたところでもあります。それまでは,なにもない丘陵地帯で灌木の生い茂る原野でした。

 その「高の原」が,高野新笠のゆかりの地だったと知り,わたしとしては不思議なご縁を感じないわけにはいきません。そうと知っていたら,もっともっと,あちこち散策して,徹底的に調べておけばよかったと,いまごろになって後悔。そういえば,秋篠寺の界隈や,押熊町のあたり,そして,わたしの住んでいた中山町の周辺にも,むかしの住居跡らしき地形(それも隠れ里のような)や,思いがけない竹藪の中に,『古事記』や『日本書紀』に登場する人物の碑が建っていたりして,びっくり仰天したことを,いまさらながら思い出しています。

 もう一度,あの地を歩き回ってみたい,そんな衝動に駆られています。

 この菅原伏見から菅原道真がでてくるのも,当然といえば当然。菅原道真は野見宿禰の子孫ですから。その姓である「菅原」は,野見などの姓を名乗っていた土師氏に,桓武天皇が下賜したものだといわれています。その陰には,高野新笠の力があった,とも言われています。ただし,ここにはひとつ大きな問題があります。野見の姓から菅原の姓に変わることのメリットはなにであったのか,だれがそれを望んだのか,その結果はどうだったのか,などなど。

 その後の子孫の活躍ぶりを考えてみると,その代表が菅原道真ですが,土師氏の身分では登りつめることのできない高位の官職(右大臣,など)につくことができたのは,野見の姓ではなく,菅原の姓だから可能だったとも考えられています。しかも,菅原道真が冤罪で太宰府に流されることになった遠因には,もともとは土師氏であり,葬祭儀礼に携わる身分の低い出自ではないか,という藤原一族からの蔑視・陰謀があったという説もあります。

 さて,こんなことを考えているうちに,こんどはもっともっと大きな問題に突き当たることになりました。それは,この菅原伏見と呼ばれる土地は,富雄とか,登美が丘という地名がいまも残るように,そのむかし,富雄川流域に勢力を張っていたといわれる鳥見(とみ)の長髄彦(ながすねひこ)の拠点でもあったといわれているからです。

 この問題については,いずれ,稿を改めて考えてみたいとおもいます。なぜなら,そこにはとてつもなく大きなテーマが隠されているからです。わたしの幻視はとどまるところを知らないほどに,つぎからつぎへと広がっていきます。

 とりあえず,今日のところは,ここまでとします。


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