大学が,いま,とても変なことになっているらしい。わたしの知人・友人の多くは大学に勤務している。その人たちから聞くところによれば,このゴールデン・ウィーク中も授業をやっていた,という。「エッ?」と思わず声を発してしまった。
そのうちのひとりはメールで,「カレンダーの赤字は国民の休日のはず。なのに,わたしの大学は授業をやっています。文部科学省のしめつけがきびしくなってきて,半期15週,全期30週の授業をきちんとやることが義務づけられています。もし,休講にすると,その分,かならず補講をしなければなりません。わたしたちは,学生さんも含めて,<国民>扱いされなくなっています。こんなことがまかりとおっている国は,どこか変です」と書き記しています。
わたしが大学を去って(定年退職),ちょうど丸5年が経過している。そのころから,すでにその病的な兆しが現れていました。が,いまは,その病状はもっと進行しているようです。
わたしが聴講に通っているT大学の学生さんたちは,最初の授業のときには,まるで電話帳ではないかと思われるほどの分厚い冊子を持ってきていた。見せてもらうと,大学のその年のすべての授業のシラバスがことこまかに書き込まれている。担当教員名,授業題目,授業の目的,履修の心得,半期15週分の授業内容,評価の方法,主要参考文献一覧,などなど。
そういえば,いまから8年ほど前に,わたしも初めての「シラバス」なるものを書かされた記憶がある。4月の新年度に学生さんに配布するためには,前の年の暮れには原稿を提出しなければならない。すると,どういうことが起きるのか。たとえば,2000年暮れまでに書いて提出するシラバスの原稿は,2001年4月から2002年3月までの内容を予告することになる。すると,はやくても半年後の授業内容を決定しておくことになる。遅いのは1年以上もあとの授業内容を決定しておかなくてはならない。
これは,わたしの場合だが,シラバスの原稿を書いてから1年以上も時間が経過すると,もはや,わたしの頭のなかはまったく別の考え方に変わってしまうことが多くあった。少なくとも,シラバスに書いたことを修正しなけれはならないことが多々あった。一生懸命に勉強すればするほど,そういうことが多くなる。勉強をしないで,思考が停止していれば,一年前に考えたことをそのまま,なんの抵抗もなく話すことができる。
だから,わたしは,しばしば,シラバスを無視して授業をやっていた。というより,わたしの到達した最先端の,最新の思考の結果を整理して,少しでもいい授業をやろうとこころがけた。その意味では,からだを張った命懸けの,わたしとしては「最高の」授業のつもりであった。ところが,あるとき,教務委員会の席上で,「稲垣先生はシラバスを無視して授業をやっている,と院生から苦情がきています」と委員長が発言。まあ,このときのやりとりは思い出すのもいやになるほどの,まことに低次元の議論ですれ違ったままだった。しかし,日進月歩のごとく学問の世界は進化しつづけているのだから,その成果を取り入れて授業をすることに,なんの異論があるのか,とつっぱねて会議は終了。苦虫をかみつぶすような顔をした人,よくぞ言ってくれたという人,相半ば。
いまは,もっともっと文部科学省のしめつけがきびしくなっていると聞いている。ということは,わたしのようなシラバスからはみ出すような授業をすることは,ほとんどできなくなっているのではないかと思う。仄聞によれば,学生さんによる授業評価が行われたり,それを点数化して勤務評定の参考資料にするとか,まあ,空恐ろしいことが着々と進んでいるようだ。教員も学生も,みんな息を潜めてじっと耐えている。そんな逼塞した空気が大学のなかを流れている・・・・とか。
そこにきて,国民の休日を返上しての授業展開。そこまでしなければならないほど,文部科学省の「干渉」が強くなってきている,ということだ。ただでさえ,大学のオープン・キャンパスがひっきりなしに行われ,土曜・日曜を返上して勤務しなければならない,というかつての大学では考えられなかったきびしい現実がある。大学の先生方はほとんど勉強する時間がなくなってしまって,学会発表もきわめて低調であるという。どの分野の学会も,いまや,大学院生のための研究発表の場になりさがっている,とも聞く。
国民の休日まで奪って,授業を展開しなければならない大学の現状は,どう考えてみても奇怪しい。かつての「大学の自治」はどこに行ってしまったというのだろうか。総じて,大学の先生としての矜恃が,いつのまにか失墜してしまっている,そんな印象を受けるのだが・・・。これは,わたしのたんなる杞憂であればいいのだが・・・。
せめて,「国民の休日」くらいは休みにしましょう,それを前提にした大学固有の授業計画の作成を文部科学省は承認すべきではないのか。
この話題,もっと面白い話にするつもりだったのに,案に相違して,憂鬱な話になってしまった。こんな大学の現状(その惨状たるや,書くことがはばかられるほどだ)に失望して,早めに大学を去る人も少なくない,とも聞く。大学に勤務することに誇りをもてない現実,もはや,その病状は重体・危篤状態である。
いま,日本人のこころの奥深くで,とんでもない病理現象と崩壊現象が,粛々と進んでいる,わたしも含めて。これを「病気」といわずして,なんと呼ぼうか。せめて,その自覚をもとう。
そのうちのひとりはメールで,「カレンダーの赤字は国民の休日のはず。なのに,わたしの大学は授業をやっています。文部科学省のしめつけがきびしくなってきて,半期15週,全期30週の授業をきちんとやることが義務づけられています。もし,休講にすると,その分,かならず補講をしなければなりません。わたしたちは,学生さんも含めて,<国民>扱いされなくなっています。こんなことがまかりとおっている国は,どこか変です」と書き記しています。
わたしが大学を去って(定年退職),ちょうど丸5年が経過している。そのころから,すでにその病的な兆しが現れていました。が,いまは,その病状はもっと進行しているようです。
わたしが聴講に通っているT大学の学生さんたちは,最初の授業のときには,まるで電話帳ではないかと思われるほどの分厚い冊子を持ってきていた。見せてもらうと,大学のその年のすべての授業のシラバスがことこまかに書き込まれている。担当教員名,授業題目,授業の目的,履修の心得,半期15週分の授業内容,評価の方法,主要参考文献一覧,などなど。
そういえば,いまから8年ほど前に,わたしも初めての「シラバス」なるものを書かされた記憶がある。4月の新年度に学生さんに配布するためには,前の年の暮れには原稿を提出しなければならない。すると,どういうことが起きるのか。たとえば,2000年暮れまでに書いて提出するシラバスの原稿は,2001年4月から2002年3月までの内容を予告することになる。すると,はやくても半年後の授業内容を決定しておくことになる。遅いのは1年以上もあとの授業内容を決定しておかなくてはならない。
これは,わたしの場合だが,シラバスの原稿を書いてから1年以上も時間が経過すると,もはや,わたしの頭のなかはまったく別の考え方に変わってしまうことが多くあった。少なくとも,シラバスに書いたことを修正しなけれはならないことが多々あった。一生懸命に勉強すればするほど,そういうことが多くなる。勉強をしないで,思考が停止していれば,一年前に考えたことをそのまま,なんの抵抗もなく話すことができる。
だから,わたしは,しばしば,シラバスを無視して授業をやっていた。というより,わたしの到達した最先端の,最新の思考の結果を整理して,少しでもいい授業をやろうとこころがけた。その意味では,からだを張った命懸けの,わたしとしては「最高の」授業のつもりであった。ところが,あるとき,教務委員会の席上で,「稲垣先生はシラバスを無視して授業をやっている,と院生から苦情がきています」と委員長が発言。まあ,このときのやりとりは思い出すのもいやになるほどの,まことに低次元の議論ですれ違ったままだった。しかし,日進月歩のごとく学問の世界は進化しつづけているのだから,その成果を取り入れて授業をすることに,なんの異論があるのか,とつっぱねて会議は終了。苦虫をかみつぶすような顔をした人,よくぞ言ってくれたという人,相半ば。
いまは,もっともっと文部科学省のしめつけがきびしくなっていると聞いている。ということは,わたしのようなシラバスからはみ出すような授業をすることは,ほとんどできなくなっているのではないかと思う。仄聞によれば,学生さんによる授業評価が行われたり,それを点数化して勤務評定の参考資料にするとか,まあ,空恐ろしいことが着々と進んでいるようだ。教員も学生も,みんな息を潜めてじっと耐えている。そんな逼塞した空気が大学のなかを流れている・・・・とか。
そこにきて,国民の休日を返上しての授業展開。そこまでしなければならないほど,文部科学省の「干渉」が強くなってきている,ということだ。ただでさえ,大学のオープン・キャンパスがひっきりなしに行われ,土曜・日曜を返上して勤務しなければならない,というかつての大学では考えられなかったきびしい現実がある。大学の先生方はほとんど勉強する時間がなくなってしまって,学会発表もきわめて低調であるという。どの分野の学会も,いまや,大学院生のための研究発表の場になりさがっている,とも聞く。
国民の休日まで奪って,授業を展開しなければならない大学の現状は,どう考えてみても奇怪しい。かつての「大学の自治」はどこに行ってしまったというのだろうか。総じて,大学の先生としての矜恃が,いつのまにか失墜してしまっている,そんな印象を受けるのだが・・・。これは,わたしのたんなる杞憂であればいいのだが・・・。
せめて,「国民の休日」くらいは休みにしましょう,それを前提にした大学固有の授業計画の作成を文部科学省は承認すべきではないのか。
この話題,もっと面白い話にするつもりだったのに,案に相違して,憂鬱な話になってしまった。こんな大学の現状(その惨状たるや,書くことがはばかられるほどだ)に失望して,早めに大学を去る人も少なくない,とも聞く。大学に勤務することに誇りをもてない現実,もはや,その病状は重体・危篤状態である。
いま,日本人のこころの奥深くで,とんでもない病理現象と崩壊現象が,粛々と進んでいる,わたしも含めて。これを「病気」といわずして,なんと呼ぼうか。せめて,その自覚をもとう。
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