今日(12日)の『東京新聞』の「本音のコラム」で,山口二郎が「変節政治家」と題して,安倍晋三首相をこきおろしている。わたしも,このところの安倍晋三君の言動にあきれはてていたので,ようやく少しだけ溜飲を下げることができた。山口二郎の意見にまったく,同感である。
内容は,安倍晋三君の歴史認識と排外主義の2点をとりあげて,その「変節」ぶりを批判したものだ。歴史認識については,アメリカからの批判がはじまると,とたんにこれまでの中国や韓国に対する強行姿勢の取り下げに走り,排外主義については,いまごろになって「憂慮している」という姿勢を示した。そして,村山談話の見直しには着手しないとも(官房長官)表明した。これまでの強気の姿勢はいったいどこにいってしまったのか,と。
その上で,「強者の圧力で差し替えた議論は,状況の変化でまた元に戻る。歴史認識で国際的常識を共有することには賛成である。」と釘を刺しておいて,「ならば,将来にわたって認識を貫くことについて,担保を差し出すべきである。参議院選挙の後も,反省と謝罪の認識を変えないことを今から世界に向って約束すべきである。」と断じている。
わたしも,この意見に大賛成である。
それにしても,こんなにあっさりと宗旨がえをするとは・・・・・。こんどは,まったく別の意味であきれはてている。一国の宰相が,みずからの政治生命をかけて,一貫した強気の姿勢を貫くのは,いい・悪いの判断はともかくとして,政治家として当然だと思う。国民はそれを見届けた上で,是非の判断をし,選挙という方法で判定をくだせばいいのだから。
一番困るのは「玉虫色」の姿勢を貫く政治家。これには,多くの国民はしばしば騙されてしまう。どれが本質なのかの見極めがむつかしくなるから。しかし,強気から弱気に一気に宗旨がえをするのも,わかりやすいとはいえ,困ったものだ。こうなると,安倍晋三君は,アメリカの風向きいかんによっては,いかようにも舵を切り替える人だ,ということがはっきりしてきた。山口二郎は「変節政治家」という冠を載せたが,わたしは「豹変政治家」の冠を被せておきたい。
かつて,「お腹が痛くなったから」といって,政権をあっさり投げ出したお坊ちゃん宰相だ。こんどは,TPPには参加しないと選挙公約にかかげておきながら,それを無視してあっさりと「参加表明」に豹変した。選挙公約違反にもなにくわぬ顔をして。そして,眼くらましをかますかのようにして矢継ぎ早に,つぎからつぎへと持論の政治課題を提示して,あれよあれよと思う間に駆け抜けようとする。そして「スピード感のある政治」を標榜する。国民は,この眼くらましにあって,なんだか実行力のある政治家だと勘違いしてしまう。それが,嘘のような高支持率になって表れているのだろう。でも,これが一時的な虚構であることは,多くの識者は承知しているところだ。
わたし自身は,二度目の政権担当ということもあって,いよいよ父祖伝来の政治家の血が乗り移ってきたのかも・・・と考えもした。岸信介,佐藤栄作の血が,かれのからだを流れていることは間違いないのだから。となれば,こんどの安倍晋三君は「要注意」だと思っていた。
ところがである。まったく真逆の意味で,「要注意」だった。
安倍晋三君は,アメリカからの風向きによっては,いかようにも宗旨がえをする「豹変政治家」である,ということがはっきりしたからだ。
「アベ蚤ックス」の効果もはっきりしてきた。単なる為替の変動だけで,儲かる企業と損をする企業との二極に分裂した。そこには企業努力のかけらもない。そして,国民のレベルでいえば,金持ちはますます金持ちに,貧乏人はますます貧乏になっていく。アメリカの歩いた道を,まっすぐそのまま後追いをしている。アメリカはたった1割の金持ちのために9割の貧乏人が犠牲にされている,とアメリカ国民が怒りの声をあげている,という報道がしばらく前にあった。日本も,もう,すぐ目の前にそれが待っている。
歌謡コンサートに飛び入り参加して歌を歌うのも,この人らしいといえばこの人らしい。背番号「96」をつけて始球式の球審を務めるのも,この人らしいといえば,この人らしい。しかし,人のふんどしで相撲をとることはやめよう。不快である。とりわけ,背番号「96」は。場違いなジョークを言って殺された人がいる,という俚諺を想起せよ。ジョークは用意周到な場と間合いが命なのだ。いま,「96」はどのように細工をしようが,ジョークにはならない。
ひょいひょいと,その場の思いつきで,なにをやらかすかわからない,そういう「お坊ちゃん」的性格は生来のものなのであろう。だから,「豹変」するのもお手のもの。かれにとってはなんの違和感もないのだろう。そこが,怖い。
でも,これで,いよいよ「アベ蚤ックス」の底が割れた。
しかし,それにしても,自民党に代わりうる政党がみつからない。そちらの方がもっと深刻かもしれない。「根」なし草の悲しさか。「根をもつこと」の重要さを,ここでも考えてしまう。
内容は,安倍晋三君の歴史認識と排外主義の2点をとりあげて,その「変節」ぶりを批判したものだ。歴史認識については,アメリカからの批判がはじまると,とたんにこれまでの中国や韓国に対する強行姿勢の取り下げに走り,排外主義については,いまごろになって「憂慮している」という姿勢を示した。そして,村山談話の見直しには着手しないとも(官房長官)表明した。これまでの強気の姿勢はいったいどこにいってしまったのか,と。
その上で,「強者の圧力で差し替えた議論は,状況の変化でまた元に戻る。歴史認識で国際的常識を共有することには賛成である。」と釘を刺しておいて,「ならば,将来にわたって認識を貫くことについて,担保を差し出すべきである。参議院選挙の後も,反省と謝罪の認識を変えないことを今から世界に向って約束すべきである。」と断じている。
わたしも,この意見に大賛成である。
それにしても,こんなにあっさりと宗旨がえをするとは・・・・・。こんどは,まったく別の意味であきれはてている。一国の宰相が,みずからの政治生命をかけて,一貫した強気の姿勢を貫くのは,いい・悪いの判断はともかくとして,政治家として当然だと思う。国民はそれを見届けた上で,是非の判断をし,選挙という方法で判定をくだせばいいのだから。
一番困るのは「玉虫色」の姿勢を貫く政治家。これには,多くの国民はしばしば騙されてしまう。どれが本質なのかの見極めがむつかしくなるから。しかし,強気から弱気に一気に宗旨がえをするのも,わかりやすいとはいえ,困ったものだ。こうなると,安倍晋三君は,アメリカの風向きいかんによっては,いかようにも舵を切り替える人だ,ということがはっきりしてきた。山口二郎は「変節政治家」という冠を載せたが,わたしは「豹変政治家」の冠を被せておきたい。
かつて,「お腹が痛くなったから」といって,政権をあっさり投げ出したお坊ちゃん宰相だ。こんどは,TPPには参加しないと選挙公約にかかげておきながら,それを無視してあっさりと「参加表明」に豹変した。選挙公約違反にもなにくわぬ顔をして。そして,眼くらましをかますかのようにして矢継ぎ早に,つぎからつぎへと持論の政治課題を提示して,あれよあれよと思う間に駆け抜けようとする。そして「スピード感のある政治」を標榜する。国民は,この眼くらましにあって,なんだか実行力のある政治家だと勘違いしてしまう。それが,嘘のような高支持率になって表れているのだろう。でも,これが一時的な虚構であることは,多くの識者は承知しているところだ。
わたし自身は,二度目の政権担当ということもあって,いよいよ父祖伝来の政治家の血が乗り移ってきたのかも・・・と考えもした。岸信介,佐藤栄作の血が,かれのからだを流れていることは間違いないのだから。となれば,こんどの安倍晋三君は「要注意」だと思っていた。
ところがである。まったく真逆の意味で,「要注意」だった。
安倍晋三君は,アメリカからの風向きによっては,いかようにも宗旨がえをする「豹変政治家」である,ということがはっきりしたからだ。
「アベ蚤ックス」の効果もはっきりしてきた。単なる為替の変動だけで,儲かる企業と損をする企業との二極に分裂した。そこには企業努力のかけらもない。そして,国民のレベルでいえば,金持ちはますます金持ちに,貧乏人はますます貧乏になっていく。アメリカの歩いた道を,まっすぐそのまま後追いをしている。アメリカはたった1割の金持ちのために9割の貧乏人が犠牲にされている,とアメリカ国民が怒りの声をあげている,という報道がしばらく前にあった。日本も,もう,すぐ目の前にそれが待っている。
歌謡コンサートに飛び入り参加して歌を歌うのも,この人らしいといえばこの人らしい。背番号「96」をつけて始球式の球審を務めるのも,この人らしいといえば,この人らしい。しかし,人のふんどしで相撲をとることはやめよう。不快である。とりわけ,背番号「96」は。場違いなジョークを言って殺された人がいる,という俚諺を想起せよ。ジョークは用意周到な場と間合いが命なのだ。いま,「96」はどのように細工をしようが,ジョークにはならない。
ひょいひょいと,その場の思いつきで,なにをやらかすかわからない,そういう「お坊ちゃん」的性格は生来のものなのであろう。だから,「豹変」するのもお手のもの。かれにとってはなんの違和感もないのだろう。そこが,怖い。
でも,これで,いよいよ「アベ蚤ックス」の底が割れた。
しかし,それにしても,自民党に代わりうる政党がみつからない。そちらの方がもっと深刻かもしれない。「根」なし草の悲しさか。「根をもつこと」の重要さを,ここでも考えてしまう。
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