2013年5月5日日曜日

「ぼくは不完全な死体として生まれ,何十年かかかって,完全な死体となるのである」(寺山修司)。

 土曜日の『東京新聞』を毎週,楽しみにしている。その第一の理由は,福島泰樹の「追憶の風景」というコラムが載っているからである。このコラムの末尾に(ふくしま・やすき=歌人,絶叫ミュージシャン,住職)とあるとおり,この人の生きざまは尋常一様ではない。歌人だから当然といえば当然なのだが,この人の文章がまことにいい。毎回,感動して読んでいる。さすがに絶叫ミュージシャンだけあって,魂の入り方が違う。それを,歌人の研ぎ澄まされた感性に乗せ,一分の無駄もない文章でつづる。迫力満点である。

 今回は,寺山修司を回想している。歌人同志の深い,深い切り結び方が,激しい情熱とともにわたしのこころに突き刺さってくる。壮絶というべきか,うしろを絶つというべきか,エッジに立つ人間同士のすさまじい生きざまが,そのまま直に伝わってくる。

 短歌絶叫のステージ活動を本格的にはじめたのは,ひとえに寺山修司という存在があったからだ,と福島泰樹はいう。そして,寺山修司の遺書となった詩「懐かしのわが家」の一部を紹介している。そのまた一部が,表題に書いたものだ。もう少し長く引用しておこう。つねに「死」と背中合わせで生きていた寺山修司の死生観がみごとに表出している。

 「昭和10年12月10日/ぼくは不完全な死体として生まれ/何十年かかかって/完全な死体となるのである。」
 「そのときが来たら/ぼくは思いあたるだろう/青森市浦町字橋本の/小さな陽あたりのいい家の庭で・・・・」

  寺山修司はネフローゼ症候群という生まれながらの持病と向き合いながら,いつ訪れるとも知れぬ「死」と隣り合わせの生涯を貫いた。だから,「ぼくは不完全な死体として生まれ」と歌う。そして,そんなに遠くはない「完全な死体となる」ことを自覚していた。

 だから,寺山修司はみずからの才能を信じて,生き急ぐかのようにして生涯を駆け抜けていった。高校生で歌人としてデビューし,文学,放送,映画,演劇とあらゆるジャンルを席巻しながら,人生を謳歌した。いくつもの奇行もとりざたされたが,それも含めてかれの人生だった。享年47歳。5月4日が命日。

 そんな寺山修司に向けて,この歌人で絶叫ミュージシャンで住職を名乗る福島泰樹は歌を捧げる。
 さようなら寺山修司/かもめ飛ぶ夏/流木の漂う海よ  泰樹
 あおぞらにトレンチコート羽撃(はばた)けよ寺山修司さびしきかもめ
 頓挫した歌への意志を/受け継ぐ者,/それは私だ。/願わくば寺山修司よ,/われらが魂の絶叫に涙してくれ

 このように福島泰樹は寺山修司に呼びかけ,84年5月から,一周忌の霊前に追悼歌集『望郷』(思潮社)をささげ,追悼絶叫コンサートをつづける。

 こんどの5月10日には,吉祥寺曼陀羅(まんだら)で没後30周年追悼コンサート「望郷」を開催するという。いったい,どんなステージになるのやら,でかけてみたいと思っている。魂の叫びを歌にし,それをミュージシャンとして絶叫演奏できる住職は,なんと幸せなことか。




0 件のコメント: