2013年5月25日土曜日

遠州浜名湖・奥山の方廣寺(臨済宗)を訪ね,羅漢さんを拝む。感動。

 年に一回旅をする会があって,ことしは奥浜名湖の井伊谷(いいのや)からさらに奥山に分け入った臨済宗の古刹方廣寺に行ってきました。以前にも,何回も訪ねたことのある立派なお寺で,そのつど,深い感銘を受けていたのですが,今回はことのほか大きな感動がありました。


 とりわけ,境内に点在している羅漢像の表情に惹きつけられるものがありました。これまでにも面白い表情をしているなぁと思って眺めていましたが,今回は一体ずつ丁寧に拝みみるようにして,じっと向き合うことをこころがけてみました。というか,気がついたらいつのまにか「向き合って」いた,というのが正直なところです。


 五百羅漢という言い方がありますが,ここ方廣寺の羅漢さんも,境内のいたるところに無数に点在していて,やはり同じように五百羅漢としてひろく知られています。その表情がじつに豊か,そしてそのポーズもまったく自由奔放,一体として同じ表情のものはありません。寺の発行した図録『東海の名刹 方廣寺』によれば,「全境内の樹下石上に姿態自由な立像座像臥像が苔衣を着て,或いは禅思し,或いは流水を俯瞰し,或いは行雲を仰視して居る」という具合です。


 これらの羅漢さんは,開祖無文元選禅師が,かつて中国で天台の修行中に,とある石橋に茶を献じたところ,忽然と羅漢さんが身を現し,別峯に禅師を案内したという故事に由来するものだといわれています。あるいは,開祖無文元選禅師を慕って,常時,五百人を越える修行僧が集まっていたという伝承にもとづくものだ,ともいわれています。いずれにしても,五百体の羅漢さんが勢ぞろいして名実ともに五百羅漢になったのは明和七年(1772年)のことだそうです。


  ついでに書いておけば,開祖無文元選禅師は後醍醐天皇の王子(次男)で,天皇の没後,18歳のときに得度して仏道に入り,中国にわたって修行してきた人です。帰国後も諸国を遍歴しながら,随所に庵を結び,僧俗の接化につとめたと言われています。やがて,三河に廣澤庵を開創します。そのとき,遠江の豪族井伊家の分家奥山六郎次郎朝藤が廣澤庵に参籠して,無文元選禅師に深く帰依することになります。そして,そのご恩に酬いるためと後醍醐天皇追善のためとを兼ねて,領地内に一寺を建立し,禅師を請来したのが深奥山(じんおうざん)方廣寺のはじまりだとのことです。ときに,1371年。(1384年の異説ありとのこと)。
 
  ちなみに,羅漢さんの正式な名前は阿羅漢といいます。阿羅漢とは,辞典によれば,「(尊敬・供養を受けるのに値するという意味で応供(おうぐ)と訳す)仏教の修行の最高段階,また,その段階に達した人。もとは仏の尊称にも用いたが,後世は主として部派仏教の聖者を指す」とあります。これが省略されて,羅漢さんと親しみをこめた呼び名になり,ひろく知られるようになったようです。


 羅漢さんという人はこういう人たちのことなのだ,ということがわかってきますと,ますます,あの境内のいたるところに坐っていたり,立っていたり,横になっていたりした羅漢さんが,もっともっと親しみ深いものになってきます。なるほど,修行を積んで,あるレベルに達すると,あらゆるしがらみからも解き放たれて自由奔放になれるのだ,と。そこからさきに禅定の世界がひろがっているんだなぁ,とこれまた納得です。これは,仏教にかぎらず,どの分野でも一つの道を究め,あるレベルを超えでてしまった人たちの見えてくる「景色」はわたしのような凡人とはまったく別物だ,ということもそれとなくわかってきます。どの世界の道にしろ,一歩一歩,精進していくことの意味は,自己から解き放たれる自己に出会うことにあるのだろう,とそんなことを方廣寺で感じながら,至福のときを過ごしました。


  そんな羅漢さんを存分に楽しみながら,境内の山道を登っていきました。登りつめてところに堂々たる本堂だ聳え立っています。何回,訪ねてはても,仰ぎみて圧倒されてしまいます。しかも,正面の扁額には「深奥山」(じんおうざん)と勢いのいい文字が踊っています。思わず足を止めて,じっと見入ってしまいます。すると,そのすぐ横に「山岡鉄舟書」と説明書きが目に入り,ああ,なるほど,と納得。ここからさきに,またまた,思いがけない出会いというか,新しい発見もあったりして・・・。このことについてはまた機会を改めることにしましょう。

 というわけで,今日のところはここまで。
 とても素晴らしいお寺ですので,ぜひ,訪ねてみてください。お薦めです。

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