2013年5月5日日曜日

富士山を世界遺産にしたからって,だから,どうなの?

 いまごろになって,ようやく富士山が世界遺産になるそうな。登録が決まれば,日本では17番目の世界遺産だそうな。でも,三保の松原とセットでは認めないと〇〇が言っているそうな。で,地元ではあわてて三保の松原の清掃にとりかかっているそうな。

 そんなことはどうだっていいじゃないか。富士山は富士山。世界遺産になろうがなるまいが,富士山は富士山。日本一。太古のむかしから信仰の山として,日本人には親しまれてきた。別に,世界遺産にしなくても,多くの日本人のこころの奥深くに刻まれた,世界でもっとも美しい山だと信じている。それだけで充分ではないか。

 法隆寺のように,現状を維持する上でなにかと費用がかかる遺産であれば,世界遺産に登録することによって,多少の支援が得やすくなるというのなら,まだ,理解できる。しかし,富士山は自然のままの山だ。しかも,休火山だ。いつ,どのタイミングで爆発するかもしれない。そうなれは,姿・形もすっかり様変わりしてしまうかもしれない。自然現象のままにゆだねるしかない巨大な山を,世界遺産にする,というその趣旨がわたしにはわからない。

 信仰の山から観光の山へ,そして,冬にはスポーツの対象としての山へ,と富士山はいろいろの顔をもっている。富士にはすすきがよく似合う,と言った人もいる。伊豆半島のどこそこから眺める富士山が一番,という人もいる。人それぞれに富士山と向き合い,それぞれの方法で楽しめばいい。なのに,なぜ,いまごろになって世界遺産登録をしなければならないのか。わたしにはいま一つよくわからない。

 ちなみに,登山家の野口さんは富士山の世界遺産登録に反対だという。その理由は,富士山が世界遺産に登録されると,これまでになかった富士登山についてのさまざまな規制がかかってくる可能性が大だから,という。すでに,地元の自治体は「入山料の徴収を検討」という談話を発表している。これだけではないだろう。たぶん,富士登山に関するマナーも,さまざまな法律によって規制されることになるだろう。うっかり煙草も吸えなくなるかもしれない。こうして,富士山は,これまでのあるがままの富士山ではなくなってしまう可能性が大である。

 たとえば,これはわたしの勝手な想像でしかないが,近い将来,富士山麓のどこかで地熱発電所を建設しようという話が持ち上がったときに,すんなりと許可がおりるだろうか。これまでの国内の文化遺産の例からしても,現状維持が強く求められ,個人の家ですら自分の好みで建て替えることはできないと聞く。広い富士山麓も,これまでのような基準で開発することは不可能になるだろう。富士山の景観を守る,世界遺産としての富士山の景観を守る,という姿勢はこれからますます強くなってくるに違いない。

 富士山登山も,ひょっとしたら,しっかりとした登山計画書をしかるべきところに提出して「許可」を得て,その上で「計画」どおりに登山をして,そして,下山することが義務化される可能性もあるだろう。なにもかも法律によって規制される,そんな悪夢が待っているような・・・・。

 5合目までなら,だれでも自由に自動車で登っていくことが,いまは,できる。しかも,これも,そのうちなんらかの「規制」がかかるのではないか,とわたしは危惧する。たぶん,富士山の現状を維持するための「維持費」などの名目で,じわじわと有料化されるのではないか,と。

 富士山の資本価値が高まれば,そのまま富士山そのものの金融化が進むのは資本主義社会の大原則だ。だから,そうなるのは眼にみえている。富士山は,あっという間に,これまでの富士山ではなくなっていくのではないか,それが心配だ。

 富士山をわざわざ,いまごろにてって,世界遺産に登録しなくても,わたしたちにとっては「世界一」の富士山に変わりはない。このままでなんの不自由もない。あるがまま,ご神体。そんな気持ちがわたしたちのどこかにあって,そのまま畏敬の念につつまれている,それが富士山だ。

 それを,わざわざ世界遺産に登録しなければならない意味が,わたしにはわからない。富士山を世界遺産にしなくても,富士山は富士山。このままでいい,とわたしは思うのだが・・・・。

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