給排水管の総入れ替えをするという,築30年を経過したマンション(1,103世帯)の大修理が,ようやく今日(13日)夕刻,わたしの部屋のある階まで完了しました。全体でいうとあと少しだけ残っています。が,まずは,やれやれというか,お疲れさまというべきか,疲れました。ほぼ一ヶ月前から荷物の片づけに入り,大事なものもふくめすべて段ボールの箱につめてビニールの袋をかぶせて,ベランダに積み上げる,この作業に没頭していました。6月には20日から4日間,娘夫婦を沖縄から呼び寄せて,手助けをしてもらいました。そのあとは,老人がよたよたしながらの片づけです。ほとんど毎日,その作業に没頭していました。そして,この工事がはじまる前日の午前3時にようやく片づけが終わりました。滑り込みセーフでした。
それから4日間,大勢の職人さんたちが出入りして,それはそれは凄い働きぶりでした。これは見ているだけで,とてつもない勉強になりました。肉体をつかって仕事をしている人たちは,まずはチーム・ワークが第一,その息の合った働きぶりは感動的ですらありました。われわれの頭しか使わない甘っちょろい仕事とは違う,としみじみ思いました。
第一,この猛暑のなか,完全武装の作業服で身を固め,汗びっしょりかきながら,仲間と声を掛け合いながらひっきりなしにからだを動かし,休むことなく働きます。久し振りにこういう仕事をする人たちにじかに触れ合うことができて,とても勉強になりました。この仕事に比べたら,わたしたちのやっている仕事は甘っちょろい,とこころの底から反省した次第です。
さて,問題はこれからです。いよいよ「終活」ということを具体化しなくてはなりません。まずは,あと何年生きるか,それまで元気でいられるのは何年か。そのあとはできるだけコロリと死ぬこと,そのための設計図を描かなくてはなりません。それを視野に入れて,さて,手元に残すべきものを厳選すること,あとは,保存してもらえる人に預けること(所有権を預けること,つまり,寄付すること),そして,その他は思いきって捨てること,この作業をしなくてはなりません。これをどのペースでやっていくか,こころとからだと相談しながらの,まったなしの思案のしどころです。
まずは,書籍の処分。家に残すべきものはほんのわずかでいい。つまり,最小限にとどめること。しかし,これがそんなに容易なことではありません。片づける段階でそれに取り組んでみましたが,それをやっていては間に合わないということがわかり,途中で放棄しました。が,こんどは待ったなしで「捨てる」という最大の課題に取り組まなくてはなりません。
これからのち,ある程度,まともな状態で仕事ができるとしても,あと5年。つまり,80歳を想定。それまでの間,手元に置いておきたい本を厳選すること。あとは,だれかに預けること。預けておけば,もし,必要があれば借りにいけばいい。幸いにしてそんなやっかいなことを引き受けてもいいと言ってくれる人も現れました。もっとも,自分の本を借りにいく,そんなことが,以後,何回,起きるだろうかと想像してみる。まずは,よほどのことがない限りないだろう,と想定。もし,あったとしたら旅行にでもいく気分ででかければいい。そんなつもりで・・・・・と自分に言い聞かせて選別にとりかかる。比較的気持ちは楽になる。でも,「捨てる」ということは勇気のいるものだと知りました。
そのむかし,大阪大学の教員宿舎に住んでいたころ,社会学のS教授と親しくさせていただいた。この先生も,千葉大から大阪大学に移るときにもっていた書籍の半分以上は処分した,と仰っていました。そして,それは「とても勇気のいることでした」と述懐されていたことを思い出します。そして,どうしても必要な本はもう一度買えばいい,と腹をくくった,とのこと。なるほど,そこまでの決断があればあとはなんとでもなる,といまごろになって思い出しています。
いまなら,アマゾンで手配すれば,すぐに手に入ります。必要がなくなったら,また,処分すればいい,といまは冷静に考えることができるようになりました。しかし,実際にどうなるかはわかりません。やはり,「捨てる」ということはものがなかった時代に成人した人間にとっては,ほんとうに大変なことです。いまの時代に育った人たちには理解不能だろうと思います。それは,ある意味では,トラウマのようになっていて,病気のようなものでもあります。
でも,もう,この期に及んでは,そんなことは言ってられません。とにかく,こころを鬼にして「捨てる」。それなくして明日はない。とまあ,このブログは,私自身に引導を渡すために書いているようなもの・・・・。情けないですが,それが実態。
一気に片づける気力も体力もありません。毎日,少しずつ,2時間ほどをこの片づけ仕事に当てて,のんびりやることにします。こうやって,おさらばの心構えをみずからに教え込んでいるようなものかもしれません。
それでも,元気なうちはもうしばらくは・・・・と考えていますので,どうぞよろしくお願いいたします。このブログも自分自身へのエールのようなもの。書く元気のあるうちに書いておこう,と。
というわけですので,元気がでるようなコメントをいただけると幸いです。よろしくお願いいたします。
それから4日間,大勢の職人さんたちが出入りして,それはそれは凄い働きぶりでした。これは見ているだけで,とてつもない勉強になりました。肉体をつかって仕事をしている人たちは,まずはチーム・ワークが第一,その息の合った働きぶりは感動的ですらありました。われわれの頭しか使わない甘っちょろい仕事とは違う,としみじみ思いました。
第一,この猛暑のなか,完全武装の作業服で身を固め,汗びっしょりかきながら,仲間と声を掛け合いながらひっきりなしにからだを動かし,休むことなく働きます。久し振りにこういう仕事をする人たちにじかに触れ合うことができて,とても勉強になりました。この仕事に比べたら,わたしたちのやっている仕事は甘っちょろい,とこころの底から反省した次第です。
さて,問題はこれからです。いよいよ「終活」ということを具体化しなくてはなりません。まずは,あと何年生きるか,それまで元気でいられるのは何年か。そのあとはできるだけコロリと死ぬこと,そのための設計図を描かなくてはなりません。それを視野に入れて,さて,手元に残すべきものを厳選すること,あとは,保存してもらえる人に預けること(所有権を預けること,つまり,寄付すること),そして,その他は思いきって捨てること,この作業をしなくてはなりません。これをどのペースでやっていくか,こころとからだと相談しながらの,まったなしの思案のしどころです。
まずは,書籍の処分。家に残すべきものはほんのわずかでいい。つまり,最小限にとどめること。しかし,これがそんなに容易なことではありません。片づける段階でそれに取り組んでみましたが,それをやっていては間に合わないということがわかり,途中で放棄しました。が,こんどは待ったなしで「捨てる」という最大の課題に取り組まなくてはなりません。
これからのち,ある程度,まともな状態で仕事ができるとしても,あと5年。つまり,80歳を想定。それまでの間,手元に置いておきたい本を厳選すること。あとは,だれかに預けること。預けておけば,もし,必要があれば借りにいけばいい。幸いにしてそんなやっかいなことを引き受けてもいいと言ってくれる人も現れました。もっとも,自分の本を借りにいく,そんなことが,以後,何回,起きるだろうかと想像してみる。まずは,よほどのことがない限りないだろう,と想定。もし,あったとしたら旅行にでもいく気分ででかければいい。そんなつもりで・・・・・と自分に言い聞かせて選別にとりかかる。比較的気持ちは楽になる。でも,「捨てる」ということは勇気のいるものだと知りました。
そのむかし,大阪大学の教員宿舎に住んでいたころ,社会学のS教授と親しくさせていただいた。この先生も,千葉大から大阪大学に移るときにもっていた書籍の半分以上は処分した,と仰っていました。そして,それは「とても勇気のいることでした」と述懐されていたことを思い出します。そして,どうしても必要な本はもう一度買えばいい,と腹をくくった,とのこと。なるほど,そこまでの決断があればあとはなんとでもなる,といまごろになって思い出しています。
いまなら,アマゾンで手配すれば,すぐに手に入ります。必要がなくなったら,また,処分すればいい,といまは冷静に考えることができるようになりました。しかし,実際にどうなるかはわかりません。やはり,「捨てる」ということはものがなかった時代に成人した人間にとっては,ほんとうに大変なことです。いまの時代に育った人たちには理解不能だろうと思います。それは,ある意味では,トラウマのようになっていて,病気のようなものでもあります。
でも,もう,この期に及んでは,そんなことは言ってられません。とにかく,こころを鬼にして「捨てる」。それなくして明日はない。とまあ,このブログは,私自身に引導を渡すために書いているようなもの・・・・。情けないですが,それが実態。
一気に片づける気力も体力もありません。毎日,少しずつ,2時間ほどをこの片づけ仕事に当てて,のんびりやることにします。こうやって,おさらばの心構えをみずからに教え込んでいるようなものかもしれません。
それでも,元気なうちはもうしばらくは・・・・と考えていますので,どうぞよろしくお願いいたします。このブログも自分自身へのエールのようなもの。書く元気のあるうちに書いておこう,と。
というわけですので,元気がでるようなコメントをいただけると幸いです。よろしくお願いいたします。
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