2012年5月25日金曜日

『かぶく美の世界』(徳川美術館刊)にみる「スポーツ施設」の原風景。

前のブログのつづき。
『SF』誌に投ずる原稿のために,何冊もの『図録』をめくりながら,ようやく今月はこの『かぶく美の世界』から話題を拾うことにした。

主たる資料は「洛中洛外図」。つまり,1600年前後の「面白(おもしろ)の花の都」といわれた京都の遊楽の図がたくさん描きこまれている。この図録のテーマは「かぶく美の世界」なので,当然のことながら「かぶく」遊楽の図が集められている。その中心はもっぱら「舞い踊り」である。

この「舞い踊り」こそが「スポーツ的なるもの」が誕生する源泉の場=祝祭の場でもあったという仮説に立つわたしのスタンスからすれば,「洛中洛外図」はきわめて貴重な資料ということになる。そこに「スポーツ施設の原風景」という補助線を引いてみると,とても面白いことがみえてくる。

ちょうど,この「洛中洛外図」が盛んに描かれるようになった時代,すなわち1600年前後の四条河原の周辺にある変化が生まれてくるのだ。それは,「舞い踊る」のも「かぶく」のも自然のままの「河原」とその周辺が舞台となっているのだが,それらの一部は次第に,小屋掛けをして,それらを見せ物化して,興業化していくという新たな動きをみてとることができるからだ。歌舞伎の元祖とされる出雲阿国の「舞い踊り」はその典型的な例といっていいだろう。そして,次第にその種類も増えていく。つまり,新しい意識をもつプロの芸能者の登場である。

自分たちで「舞い踊る」ことが楽しくて,四条河原の好きな場所で,派手な衣装を身につけて「かぶく」パフォーマンスを勝手にしている,いわゆるアマチュアの「かぶき者」たちのなかから,小屋掛けをした見せ物への道を選ぶ芸能者が生まれる,そのちょうど過渡期の様子が「洛中洛外図」のなかに描かれている。この点に注目すると,この膨大な情報が満載の図像をみる一つの視点が明確になり,新たな発見が可能となる。

たとえば,四条大橋の上で「舞い踊る」人びとの姿である。つまり,四条大橋の上を「舞台」に仕立てて,そこで「舞い踊る」人びとの登場である。おそらく大勢の人びとが河原から,これらの「舞い踊る」人びとのパフォーマンスを楽しんでいたことだろう。が,こちらは小屋掛けと違って「囲い込み」はしていないので,無料である。つまり,興業ではない。それが下の図像である。



こうした「舞い踊る」人びとが,もともとは花見の宴を楽しみながら,野外で即興的に楽しむ人びとの間から現れてきたのは自然な流れでもある。この「舞い踊る」人びとが,次第に場所を移動していくのが,この「洛中洛外図」や「祭礼図」(祇園祭礼,賀茂の競馬,豊国祭礼,など)をみているとわかってくる。たとえば,大きな屋敷の邸内で「舞い踊る」人びとの姿である。三味線や笛,そして鼓を打つ人びとを中心に,派手な衣装で身を固め,輪になって「舞い踊る」人びとである。みんな似たような所作をしているところをみると,単なる「舞い踊り」にも曲目によって一定の「身振り」が共有されていたことが推測される。それが下図である。



こうした「舞い踊り」が遊里で盛んに行われていたことは容易に想像できるだろう。その図像は,この『かぶく美の世界』のなかにふんだんに収録されている。その一つが下図である。




この時代にあっては,「かぶく」人びとが,その時代の遊楽の流行の最先端に立ち,新しい時代を切り拓いていたことがよくわかる。その情況は,いまの若者たちが演ずる「ストリート・パフォーマンス」と少しも変わってはいない。いつの時代にあっても「かぶく」人びとは奇異の眼で眺められる。そして,いつも少数派である。しかし,こういう,いささか胡散臭い人びとが時代の閉塞感を打破する上で重要な役割をはたしてきたこともまた事実である。


※写真が横になったまま。これを立てる方法を次回までにマスターしておきます。今回はこれでお許しを。




0 件のコメント: