21世紀スポーツ文化研究所の新しい研究紀要『スポートロジイ』の刊行にようやく目処がつき,ほっと一息です。今日(1日)の午後,みやび出版の伊藤さんと最終的な打ち合わせを済ませ,これでなんとか峠をひとつ越えたなぁ,という感慨一入というところ。
すでに,初校ゲラがでていて,各執筆者による校正にまわっていましたが,最後の原稿となった「創刊のことば」と「編集後記」が残っていました。この二つの原稿をなんとか書き上げて,ようやく創刊『スポートロジイ』の全体像ができあがり,本としての目鼻がついたという印象です。
「創刊のことば」は,なぜ,いま,このタイミングで「スポートロジイ」なのか,ということについてわたしなりの思い入れを籠めて書きました。「3・11」を通過したいま,わたしたちは「後近代」に突入したという認識に立ち,「近代」という時代をささえてきた「体育学」でも「スポーツ科学」でもなく,「スポートロジイ」(Sportology=「スポーツ学」)でなければならない,と声高らかに宣言しました。ですから,「創刊のことば」のタイトルは「スポーツ学事始め」。
そして,「編集後記」は,「スポートロジイ」という和製英語を造語してまでして,「3・11」後のスタートを切らなければならなかった,わたし自身の思考の経緯を書きました。少しくどいと言われそうですが,それでも,この,いまの,熱い情念を,できるだけ素直に表出しようと覚悟を決めて書きました。とりわけ,狂気と化してしまった「理性」の権化,すなわち「科学」神話からの離脱と移動に力をそそいだつもりです。ピエール・ルジャンドルの表現を借りれば「テクノサイエンス経済」を,いかにして超克していくのか,ということです。それにしても「テクノサイエンス経済」という表現のみごとなこと。このことばに「脱」と「依存」をつけてみるとよくわかります。「脱テクノサイエンス経済依存」,これはそのまま「脱原発依存」にぴったり当てはまります。これから愛用したいとおもっています。
「脱科学依存」を気づかせてくれた『理性の探求』(西谷修著,岩波書店)の合評会での西谷さんのお話をトップに掲載(厳密にいえば,再掲載)した理由を,上に書いたようなこともふくめて,書きました。そのさわりの部分は,「生きもの」としての人間にとっての<理性>を復権させること,という西谷さんの主張をわたしたちはどのように受け止め,スポーツ学的に継承していけばいいのか,とみずからに問いを発しながら「スポーツにとって<理性>とはなにか」を考えてみました。
その応答のひとつが,わたしの書いた「研究ノート」です。それは,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』読解をとおして浮かび上がってくる<理性>の原イメージです。つまり,ヒトが動物の世界から離脱して,人間の世界に一歩を踏み出した,その瞬間から立ち上がる自己意識=理性とはどのようなものであったのか,という議論です。じつは,スポーツ(あるいは,スポーツ的なるもの)もまた,そのことと表裏一体となって立ち現れる,人間に固有の文化なのです(このような表現は,いま,初めて出てきたもので,書いているわたし自身が驚いています)。ですから,スポーツとはなにかと問うことは,同時に,人間とはなにかと問うことと同義なのです。
すなわち,「スポートロジイ」=「スポーツ学」は,「人間学」ともイコールなのです。「スポーツ学事始め」はここからスタートするのだ,と。
なんだか,書いているうちに,またまた,熱くなってきました。
自画自賛するわけではありませんが,ひとつの明確なコンセプトを貫き通した,すっきりとした本になったとおもっています。
刊行されましたら,ぜひ,ご一読いただき,ご批判をいただければ幸いです。
一般の書店にも並びます。
広告も打ちます。伊藤さんの言うには『東京新聞』だそうです。伊藤さんの身辺では『東京新聞』に乗り移る人が多いので,ここに打つことにした,とのこと。この話もまたわたしにとっては嬉しいかぎりです。その理由は,すでに,このブログにも書いたとおりです。近日中に掲載されるそうですので,『東京新聞』愛読者の方は,眼を光らせていてください。
刊行予定は5月末。実際には,25日を目標に追い込むとのこと。できれば,25日に何冊かいただいて,26日(土)の名古屋の月例研究会にもっていきたい,と楽しみにしているところです。
ということで,肩の荷が一つ降りた,というご報告まで。
すでに,初校ゲラがでていて,各執筆者による校正にまわっていましたが,最後の原稿となった「創刊のことば」と「編集後記」が残っていました。この二つの原稿をなんとか書き上げて,ようやく創刊『スポートロジイ』の全体像ができあがり,本としての目鼻がついたという印象です。
「創刊のことば」は,なぜ,いま,このタイミングで「スポートロジイ」なのか,ということについてわたしなりの思い入れを籠めて書きました。「3・11」を通過したいま,わたしたちは「後近代」に突入したという認識に立ち,「近代」という時代をささえてきた「体育学」でも「スポーツ科学」でもなく,「スポートロジイ」(Sportology=「スポーツ学」)でなければならない,と声高らかに宣言しました。ですから,「創刊のことば」のタイトルは「スポーツ学事始め」。
そして,「編集後記」は,「スポートロジイ」という和製英語を造語してまでして,「3・11」後のスタートを切らなければならなかった,わたし自身の思考の経緯を書きました。少しくどいと言われそうですが,それでも,この,いまの,熱い情念を,できるだけ素直に表出しようと覚悟を決めて書きました。とりわけ,狂気と化してしまった「理性」の権化,すなわち「科学」神話からの離脱と移動に力をそそいだつもりです。ピエール・ルジャンドルの表現を借りれば「テクノサイエンス経済」を,いかにして超克していくのか,ということです。それにしても「テクノサイエンス経済」という表現のみごとなこと。このことばに「脱」と「依存」をつけてみるとよくわかります。「脱テクノサイエンス経済依存」,これはそのまま「脱原発依存」にぴったり当てはまります。これから愛用したいとおもっています。
「脱科学依存」を気づかせてくれた『理性の探求』(西谷修著,岩波書店)の合評会での西谷さんのお話をトップに掲載(厳密にいえば,再掲載)した理由を,上に書いたようなこともふくめて,書きました。そのさわりの部分は,「生きもの」としての人間にとっての<理性>を復権させること,という西谷さんの主張をわたしたちはどのように受け止め,スポーツ学的に継承していけばいいのか,とみずからに問いを発しながら「スポーツにとって<理性>とはなにか」を考えてみました。
その応答のひとつが,わたしの書いた「研究ノート」です。それは,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』読解をとおして浮かび上がってくる<理性>の原イメージです。つまり,ヒトが動物の世界から離脱して,人間の世界に一歩を踏み出した,その瞬間から立ち上がる自己意識=理性とはどのようなものであったのか,という議論です。じつは,スポーツ(あるいは,スポーツ的なるもの)もまた,そのことと表裏一体となって立ち現れる,人間に固有の文化なのです(このような表現は,いま,初めて出てきたもので,書いているわたし自身が驚いています)。ですから,スポーツとはなにかと問うことは,同時に,人間とはなにかと問うことと同義なのです。
すなわち,「スポートロジイ」=「スポーツ学」は,「人間学」ともイコールなのです。「スポーツ学事始め」はここからスタートするのだ,と。
なんだか,書いているうちに,またまた,熱くなってきました。
自画自賛するわけではありませんが,ひとつの明確なコンセプトを貫き通した,すっきりとした本になったとおもっています。
刊行されましたら,ぜひ,ご一読いただき,ご批判をいただければ幸いです。
一般の書店にも並びます。
広告も打ちます。伊藤さんの言うには『東京新聞』だそうです。伊藤さんの身辺では『東京新聞』に乗り移る人が多いので,ここに打つことにした,とのこと。この話もまたわたしにとっては嬉しいかぎりです。その理由は,すでに,このブログにも書いたとおりです。近日中に掲載されるそうですので,『東京新聞』愛読者の方は,眼を光らせていてください。
刊行予定は5月末。実際には,25日を目標に追い込むとのこと。できれば,25日に何冊かいただいて,26日(土)の名古屋の月例研究会にもっていきたい,と楽しみにしているところです。
ということで,肩の荷が一つ降りた,というご報告まで。
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