2012年5月9日水曜日

世も末か,早稲田大学で「恋愛学入門」の授業に人気殺到とか。

恋は「落ちる」(fall in love)ものであって,理性で考えて「する」ものではない。赤ちゃんは「与えられる」(授かる)ものであって,人工的に「つくる」ものではない。こんな,「生きもの」としての人間の基本がいつしか忘れられている。それを「理性」でカバーすればいいとばかりに,「教育」しようとする。これを「理性の狂気化」といわずしてなんと呼ぼうか。このことの奇怪しさに気づいている人があまりに少ない。

『東京新聞』5月3日(木)の朝刊「T発」というコラムの記事をみて唖然としてしまった。なにを考えているのか。

まずは,見出しの大きい活字順に書き出しておこう。
早大生「恋愛」を学ぶ
森川教授「終了時,交際未経験ゼロに」
生物学的・・・体臭に気をつけよ
経済学的・・・商品価値を同じに

そして,つかみの文章は以下のとおり。
「恋愛学入門」と名乗る早稲田大学の講座が人気を集めている。人が恋に落ちるメカニズムを,政治学,社会学,生物学などさまざまな学問的領域から考察。少子化現象の解明と解決策を示すとともに,実践にも役立てる「恋愛のすすめ」だ。

記事を読んでみると,2008年から全学部共通の「オープン科目」として始まった,という。毎年,受講希望者が殺到する。本年度は244人の定員に850人が応募した。志望動機を作文で書かせて熱意ある学生を選んだ,という。

もう,この段階で,わたしはあきれ返ってしまった。恋愛の仕方を「教えてもらわなくてはならない」のか,と。しかも,この殺到ぶり。これを抽選で選ぶならともかくも,志望動機を作文で書かせて「熱意ある学生」を選んだ,という。この「狂い」ぶり。いい加減にしてほしい。その作文を読んで「選ぶ」森川友義教授(56)の,これまた桁違いの「狂い」ぶり。記事を読んでいて「恥ずかしい」。こんなことが,いまの大学で,しかも,名門早稲田大学で,大まじめに行われている。こんな授業科目を承認している教授会のメンバーにも頭をかしげざるを得ない。

これだけではない。もっと恐ろしいことが書いてある。
「社会科学的アプローチ」では,自分を市場で売買される商品にたとえ,経済学的見地から恋愛を考える,とある。そうかい,そうかい,人間は市場で売買される商品なのかい。ならば,勝手にせい。そんな売買される「もの」(事物)を,わたしは「人間」とはおもわない。

のみならず,終わりの方にはこう書いてある。
講義は全15回。今後は「キスの値段」「なぜ初恋相手と結婚してはいけないのか」「恋愛市場の分類」などのテーマを予定する。

ほんとうに「正気の沙汰か」とわたしはショックだ。冗談じゃないよ。早稲田大学といえば,そのむかしは,バンカラで売っていた大学だ。個性がはっきりしていて,自分のやりたいことをとことん追求する,きわめて魅力的な学生さんが多いところとして名声を馳せていた。少なくとも,わたしの学生時代の早稲田の学生さんは,そういう印象が強かった。が,いまは,どうだ。この体たらく。いつのまに,早稲田の学生さんは「市場の商品」になり下がってしまったのか。それで,恥ずかしいとも思っていないのか。

世の趨勢が,このように流れているらしい。だから,だれも疑問にもおもわない。この記事を読む人の大半も,「ああ,そうなんだ」と納得するのだろう。

人間の「事物」化。ここに極まれり。と,ジョルジュ・バタイユが生きていたらそう言うだろう。わたしもまた,そう言いたい。とうとう人間は「事物」として完成をみたか。
ならば,「ゆでカエル」になってもなんの不思議もないし,「思考停止」になっても不思議はない。もちろん,「自発的隷従」になっても当たり前のことだと言わねばならない。

こんにちの日本の政界,財界,官界,学界,メディア界の,腰抜けぶりも,いまに始まったことではない,ということがよくわかる。原発問題についても,「命」と「金」とどちらが大事かも判断できない人たちが,日本の中枢部に居すわっている。これこそを「理性」の狂気化と呼ばずしてなんといおうか。

ついでに言っておこう。
この記事には,なんの疑問もはさまれてはいない。いまの若者たちにとって必要な授業が早稲田で行われている,という姿勢が貫かれている。これもまた変だ。これを取材し,記事にしたメンバーの「理性」もまた狂っている。記名記事なので,記しておこう。
文・吉岡逸夫/写真・五十嵐文人,安江実/紙面構成・折尾裕子。

一度でいい。自分たちの記事を書く姿勢について,このクルーで話し合ってみてほしい。
君たちに足りないのは「思想・哲学」だ。人間とはなにか,という基本的な問いが欠落している。それを支える「思想・哲学」が,どこにも感じられない。

かつては,辺見庸のような新聞記者がいたことを,君たちは知っているだろうに。そして,いまも辺見庸は健筆をふるっていることも十分承知しているだろうに。新聞社に身を寄せている人間であれば。

わたしは『東京新聞』を支持して,『朝日新聞』から乗り換えた人間だ。
優れた記事が満載なのに,時折,とんでもない記事が掲載される。そこのところを糺してほしい。
スポーツ担当記者も,かなりベレルが低い。優勝劣敗主義や勝利至上主義を吹聴するロジックは,原発推進の論理とまったく同じだということに気づいていない。できることなら,レクチャーをしに,乗り込んでいきたいくらいだ。「スポーツとはなにか」というレクチャーをしに。

こんなことがまかりとおっている日本とはいったいどういう国なのか。
これでは,沖縄「復帰」40年って,なんのこと?と「恋愛学入門」を受講している学生さんならずとも,日本人の多くが言いそうで怖い。

「西洋が西洋について見ないでいること」とピエール・ルジャンドルは言った。「日本が日本について見ないでいること」と,沖縄問題を論ずる中で西谷修は述べている(『世界』6月号)。みんな自分のことは「見ない」でいる。そこに大きな陥穽があることも知らずに。

最後にもう一度,言っておく。
恋は「する」ものではなく,「落ちる」ものだ,と。
人間は「商品」ではなく,「生きもの」だ,と。

森川友義先生,お気は確かですか,と。早稲田大学の優秀な学生さんを「商品」(バタイユのいう「事物」)に仕立てあげるよりは,「生きもの」として活力のある人間に育てあげてください。それこそが,21世紀を生き延びていくために必要なほんとうの「理性」ではないでしょうか。

西谷修の『理性の探求』(岩波書店)を,わたしは,このように読み取っているのだが・・・・。


1 件のコメント:

フェレット さんのコメント...

10年ばかり前に大学を卒業したOBとしておもしろく拝読しました。

早稲田がバンカラだったのって、何年前なんでしょう。私が大学に通ってた頃、某世界的金融会社のレアなお色のクレジットカードを持ってる学生や、都心のお高い土地に実家があって、ファーストフード店に行ったことがなかったり電車に乗ったことがなかったり、という学生に時々会いました。

そういう子たちは、大体親が海外赴任経験があり、高校か大学のどちらかで長期間の留学をしていて、外資系に進路を採るのがほとんどでした。

勝者ゆえの見識の狭さか、「生活保護を受けることによって自助の精神が失われる。あれは廃止すべき」と平然とのたまう学生も何人会ったかな。

そこまで突き抜けたアッパークラスではなくても、上場企業の重役~管理職クラスの子弟、ベンチャー創業社長の子弟、地方有名企業や、県会議員~国会議員クラスの子弟は山ほどいましたな。

ま、全体的にシホンシュギの精神を疑わない連中だらけでしたわ。小林よしのりを愛読するネトウヨみたいな野郎もごみ収集に出したいくらいいました。J社会学や似非ポストモダンのフォロワーになって、知的装飾を凝らしたつもりの自意識過剰な歴史修正主義者の類も何ダースいたことやら。

経済格差が開いていき、地方が疲弊していく中で、中央から来ている学生の割合はどんどん多くなってもいました。

世代間での階層再生産(=階層固定、富めるものは富んだまま、貧しいものは貧しいまま)の鍵を握る「学歴ブランド」として、早稲田大学そのものが商品化されているので、その講義が商品化されていくのもまた、必然なんじゃないかという気がします。

学の独立、学の自治、こういった理念をとっくの昔に売り払ってるでしょう。そうなれば、大学が経済界や政界の価値観に合致した人材をプールさせておく遊休地でしかなくなるのもむべなるかな、というところです。

そういう風潮の中で、「人気と話題を呼ぶためのマーケティング」の結果、出てきたのが、かの講義なのではないですか。

この先、母校にどれほど馬鹿馬鹿しい講義が出てきても、特には驚きません。

ただ、早稲田大学には昔から語り継がれる格言(非公式)があります。

1.中退一流
2.留年二流
3.卒業三流

昔っからいかに留年してもゼニを出して呉れるバカなボンボン、小ブルジョワの似非遊民がいたかをうかがわせる、まことに阿呆な格言ですが。

しかし、他方で、本当にやりたいことを追いかけている人間は授業になんぞ出ていないゆえに、某のやる「恋愛学」なんぞという授業には出ない程度には良識的にもなれるか、と(笑)。

そういう部分から抵抗の精神が生まれてくる可能性があるといいな、と。