2010年5月8,9日に開催された日本記号学会第30回大会でのセッション(1,2,3)をまとめた単行本が,いろいろの事情があって,一年遅れで刊行された。わたしもセッション3のプレゼンテーターとして呼ばれてお話をさせていただいたので,そのときの話が掲載されている。首が長くなるほど待ちわびた本の刊行である。
題して,『ひとはなぜ裁きたがるのか』判定の記号論(日本記号学会編,新曜社)。なかなかおしゃれなタイトルがついている。わたしは勝手に『判定の記号論』(学会大会時の統一テーマ)という本になると思い込んでいた。しかし,そうではなかった。この学会大会を取り仕切った前川修(神戸大学)さんのアイディアでこの本のタイトルがつけられたのだろう,と想像している。たぶん,間違いないだろう。いかにも前川さんらしいタイトルのつけ方だと思うから。
じつは,大会時に,このセッションをまとめて単行本にする予定です,と聞いていたのでとても楽しみにしていた。しかし,しばらくの間,まったく音信がなかったので,ああ,あの企画は立ち消えになったと思っていた。ひょっとしたら,わたしの責任ではないか,と心配になってきた。つまり,セッション3.「スポーツをめぐる<判定>をめぐって」を引き受けたわたしの提言の内容が,日本記号学会の期待したものとは違っていたのではないか,と。だから,そのセッションだけを没にするわけにもいかないし・・・・,と。
しかし,昨年末に,突然,前川さんから連絡があり,いよいよ取りかかりますという。嬉しくて,とても胸がはずんで待ち構えていた。しかし,不思議なことに連絡上のスレ違いなどがあって,わたしの手元には初校ゲラがとどかない。やっぱり,この企画は実現できなかったのだ,と諦めていた。そこに,前川さんから,もう,時間がないので早く初校ゲラの校正を返してほしいという連絡が入った。びっくり仰天である。
わたしのところにはなにもとどいていない,と実情をそのまま伝える。すると,前川さんから,わたしの手元にある初校ゲラを送信します,とのこと。それから大慌てで朱を入れて返送。こんどは,再校のときに担当編集者の渦岡謙一さん(新曜社)から,何カ所かに「注」を入れてほしい,と注文がついた。こちらも,なるほどと思ったので,かなり力を入れて「注」を入れた。
しかも,嬉しいことに,担当編集者の渦岡さんから,個人的なメモが入っていて「このセッション3がことのほか面白かった」とある。それから,渦岡さんとは個人的なメールのやりとりがはじまった。伺うところによれば,マラソン・ランナーだという。そして,猫ひろしを応援しているという。そんなことがあって,すっかり仲良しになった気分。まだ,お会いしたこともないのに。いつかお会いしましょう,ということになっている。
そして,この本を送ってくださった挨拶文に「『近代スポーツのミッションは終ったか』もおもしろく拝読しております。一度,お話をうかがえましたら有難く存じます」と添え書きがしてある。もちろん,わたしは諸手をあげて賛成。で,早速,6月に入ったところでお会いしたい,とメールで礼状を書きながら応答。さて,どんな返信があることやら。
ちょうど,今日(12日)と明日(13日)は神戸で学会大会を開催しているはず。渦岡さんもそちらに参加しているに違いない。だから,14日(月)くらいにはメールの返信があるのではないか,と楽しみにしている。来月に入れば,わたしの方でいま進めている『スポートロジイ』(みやび出版)も刊行されていて,渦岡さんにも読んでいただいて,その上でお会いすることができる。その方が,はるかに建設的である。『近代スポーツのミッションは終ったか』(平凡社)からは,もう,相当に時間が経っている。その溝を埋めておいてもらった方が話はしやすい。
さて,この送られてきたばかりの『ひとはなぜ裁きたがるのか』はまだ,あちこち拾い読み程度なのだが,なんとなく違和感を感ずるところが随所にある。どうしてなのだろうか,と考えてしまう。そのポイントはかなりはっきりしているのだが,あまり,あわてて結論を出す必要もあるまい。じっくりと考えて断をくだせばいい。
その前に,5月26日(土)には「ISC21」5月犬山例会がある。そこで,この本の紹介を兼ねて,わたしの意見を披瀝することにしよう。その上で,いつか,みんなで「合評会」をやってもらおう。そうして,日本記号学会のスタンスについて自分なりに「判定」すればいいだろう。この学会には橋本一径さんも参加していらっしゃるので,ご意見を聞くこともできる。
ひとつだけ,わたしの違和感を提示しておけば,書名の『ひとはなぜ裁きたがるのか』にある。ヒトはことばをわがものとし,なぜ?と問うことによって人間になる,つまり「理性」を獲得して「考える」ことをはじめる。いま,わたしの頭の中は,ジョルジュ・バタイユとピエール・ルジャンドルの言説でいっぱいになっている。だから,「ひとは裁き,判定をすることが<生きる>ことの基本になっている」,そういう「生きもの」なのだ,と考える。つまり,わたしたちは,日常的に,向こうからやってくる情報(記号)に対し,一つひとつ「判定」をくだし,取捨選択することを余儀なくされている。それが「生きる」ということの内実を構築している。だから,「ひとはなぜ裁きたがるのか」ではなくて,「ひとは裁くことを余儀なくされている」ということになる。
もちろん,前川さんは,こんなことは百も承知で,むしろ,逆説的に,このようなタイトルをつけているに違いない。こんなところに,記号論を論ずることの胡散臭さから脱出しようとする洒脱さを感じないではない。が,ジョークと同じで,ひとつ間違えると勘違いされる恐れなしとしない。もちろん,それはレシーバーの感度の問題ではあるが・・・・。
いつか,前川さんとも,こんな話ができるといいなぁ,とこの本をめくりながら考えている。
いずれにしても,新しい本ができてくるということは嬉しいものである。これを糧にして,もっといいものを書いてみたいという意欲が湧いてくる。こんなことの繰り返し。でも,これは愉しいことだ。生きる喜びでもある。
その意味で,日本記号学会に感謝。
ちなみに,巻末の編集委員の名前のなかに「石田英敬」さんの名前をみつける。この学会のなかではどんな位置取りとなっているのか,とても興味をひくところ。
題して,『ひとはなぜ裁きたがるのか』判定の記号論(日本記号学会編,新曜社)。なかなかおしゃれなタイトルがついている。わたしは勝手に『判定の記号論』(学会大会時の統一テーマ)という本になると思い込んでいた。しかし,そうではなかった。この学会大会を取り仕切った前川修(神戸大学)さんのアイディアでこの本のタイトルがつけられたのだろう,と想像している。たぶん,間違いないだろう。いかにも前川さんらしいタイトルのつけ方だと思うから。
じつは,大会時に,このセッションをまとめて単行本にする予定です,と聞いていたのでとても楽しみにしていた。しかし,しばらくの間,まったく音信がなかったので,ああ,あの企画は立ち消えになったと思っていた。ひょっとしたら,わたしの責任ではないか,と心配になってきた。つまり,セッション3.「スポーツをめぐる<判定>をめぐって」を引き受けたわたしの提言の内容が,日本記号学会の期待したものとは違っていたのではないか,と。だから,そのセッションだけを没にするわけにもいかないし・・・・,と。
しかし,昨年末に,突然,前川さんから連絡があり,いよいよ取りかかりますという。嬉しくて,とても胸がはずんで待ち構えていた。しかし,不思議なことに連絡上のスレ違いなどがあって,わたしの手元には初校ゲラがとどかない。やっぱり,この企画は実現できなかったのだ,と諦めていた。そこに,前川さんから,もう,時間がないので早く初校ゲラの校正を返してほしいという連絡が入った。びっくり仰天である。
わたしのところにはなにもとどいていない,と実情をそのまま伝える。すると,前川さんから,わたしの手元にある初校ゲラを送信します,とのこと。それから大慌てで朱を入れて返送。こんどは,再校のときに担当編集者の渦岡謙一さん(新曜社)から,何カ所かに「注」を入れてほしい,と注文がついた。こちらも,なるほどと思ったので,かなり力を入れて「注」を入れた。
しかも,嬉しいことに,担当編集者の渦岡さんから,個人的なメモが入っていて「このセッション3がことのほか面白かった」とある。それから,渦岡さんとは個人的なメールのやりとりがはじまった。伺うところによれば,マラソン・ランナーだという。そして,猫ひろしを応援しているという。そんなことがあって,すっかり仲良しになった気分。まだ,お会いしたこともないのに。いつかお会いしましょう,ということになっている。
そして,この本を送ってくださった挨拶文に「『近代スポーツのミッションは終ったか』もおもしろく拝読しております。一度,お話をうかがえましたら有難く存じます」と添え書きがしてある。もちろん,わたしは諸手をあげて賛成。で,早速,6月に入ったところでお会いしたい,とメールで礼状を書きながら応答。さて,どんな返信があることやら。
ちょうど,今日(12日)と明日(13日)は神戸で学会大会を開催しているはず。渦岡さんもそちらに参加しているに違いない。だから,14日(月)くらいにはメールの返信があるのではないか,と楽しみにしている。来月に入れば,わたしの方でいま進めている『スポートロジイ』(みやび出版)も刊行されていて,渦岡さんにも読んでいただいて,その上でお会いすることができる。その方が,はるかに建設的である。『近代スポーツのミッションは終ったか』(平凡社)からは,もう,相当に時間が経っている。その溝を埋めておいてもらった方が話はしやすい。
さて,この送られてきたばかりの『ひとはなぜ裁きたがるのか』はまだ,あちこち拾い読み程度なのだが,なんとなく違和感を感ずるところが随所にある。どうしてなのだろうか,と考えてしまう。そのポイントはかなりはっきりしているのだが,あまり,あわてて結論を出す必要もあるまい。じっくりと考えて断をくだせばいい。
その前に,5月26日(土)には「ISC21」5月犬山例会がある。そこで,この本の紹介を兼ねて,わたしの意見を披瀝することにしよう。その上で,いつか,みんなで「合評会」をやってもらおう。そうして,日本記号学会のスタンスについて自分なりに「判定」すればいいだろう。この学会には橋本一径さんも参加していらっしゃるので,ご意見を聞くこともできる。
ひとつだけ,わたしの違和感を提示しておけば,書名の『ひとはなぜ裁きたがるのか』にある。ヒトはことばをわがものとし,なぜ?と問うことによって人間になる,つまり「理性」を獲得して「考える」ことをはじめる。いま,わたしの頭の中は,ジョルジュ・バタイユとピエール・ルジャンドルの言説でいっぱいになっている。だから,「ひとは裁き,判定をすることが<生きる>ことの基本になっている」,そういう「生きもの」なのだ,と考える。つまり,わたしたちは,日常的に,向こうからやってくる情報(記号)に対し,一つひとつ「判定」をくだし,取捨選択することを余儀なくされている。それが「生きる」ということの内実を構築している。だから,「ひとはなぜ裁きたがるのか」ではなくて,「ひとは裁くことを余儀なくされている」ということになる。
もちろん,前川さんは,こんなことは百も承知で,むしろ,逆説的に,このようなタイトルをつけているに違いない。こんなところに,記号論を論ずることの胡散臭さから脱出しようとする洒脱さを感じないではない。が,ジョークと同じで,ひとつ間違えると勘違いされる恐れなしとしない。もちろん,それはレシーバーの感度の問題ではあるが・・・・。
いつか,前川さんとも,こんな話ができるといいなぁ,とこの本をめくりながら考えている。
いずれにしても,新しい本ができてくるということは嬉しいものである。これを糧にして,もっといいものを書いてみたいという意欲が湧いてくる。こんなことの繰り返し。でも,これは愉しいことだ。生きる喜びでもある。
その意味で,日本記号学会に感謝。
ちなみに,巻末の編集委員の名前のなかに「石田英敬」さんの名前をみつける。この学会のなかではどんな位置取りとなっているのか,とても興味をひくところ。
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