2012年5月27日日曜日

第61回「ISC・21」5月犬山例会が盛り上がる。

「ISC・21」は「21世紀スポーツ文化研究所」の略称。わたしが定年退職する前に立ち上げたもの。原則として毎月1回の研究会を東京・名古屋・大阪,などの都市を巡回しながら開催してきた。昨日(26日)は,その第61回目。途中でお休みの月もあるので(学会大会などの大きなイベントのある月は研究会の方はお休み),ずいぶんの年月が経過している。

今回は,船井廣則さんのお世話で,犬山の名古屋経済短期大学を会場に開催された。
そのプログラムは以下のとおり。
日時:2012年5月26日(土)13:00~18:00
場所:名古屋経済短期大学(名鉄線・田県神社前下車)
プログラム:
第一部:情報交換
第二部:研究発表
1.瀧元誠樹(札幌大学):<ゆるむ身体>から武術する身体を考える~朝山一伝流体術のワー    クショップを通じて~
2.松本芳明(大阪学院大学):ヨーガのグローバル化──グローバル化によるヨーガの多様化と    その変容
3.船井廣則(名古屋経済短期大学):鬼遊びと「カミ」について──その宗教的背景──
終了後に懇親会。宿泊組みはホテルで二次会。
以上。

話は最初から盛り上がり,時間はいくらあっても足りないほど。
瀧元さんの発表は,いつものようにワークショップ付き。武術する身体にとっては<ゆるむ身体>が大前提になっていて,からだをゆるめることによってワザが繰り出される,その理論と実践を提示してくれる。たとえば,相手に手首を掴まれたときには,掴まれた手の平をいっぱいに開く。すると,その手首は太くなる。つぎの瞬間,開いた手の平の力を抜く。すると手首が細くなると同時に,掴んでいた相手の力も抜けてしまう。その瞬間に,手首を外側にまわせば,掴まれた手が解き放たれる。実際にやってみると,じつに鮮やかにはずれてしまう。つまり,<ゆるむ身体>がワザの基本になっていることの,一つの典型的な事例を示してくれる。

つづいて,松本さんがヨーガのグローバル化の問題を取り上げる。インドの伝統的なヨーガは,グローバル化すると,似て非なるものになってしまう。とりわけ,日本にあっては,健康のためのヨーガが何種類にも分化して,驚くべき流行現象をもたらしている。そこには,ヨーガの本来の目的であるべき精神の鍛練はどこかに薄れてしまっている現実が露呈している。大きな視野に立てば,グローバル化という現象は,経済に典型的に現れているように,ひつとの必然でもある。問題は,グローバル化によって失われるものと新たに得られるものはなにか,ということを見極めることだろう。そして,それは,ジョルジュ・バタイユのいう「有用性の限界」という考え方を持ち込むことによって,さらなる研究の可能性が広がるのではないか,とわたしは問題提起してみた。さて,あとは松本さんがどのように料理してくれるか,楽しみである。

最後の船井さんのところで,残された時間はわずかに30分。用意されたレジュメを大急ぎで説明して,あわてて終了。ちょっと,勿体ないことをしてしまった,と残念。しかし,短い時間ながら,とても刺激的な話題だった。

とりあえず,このブログはここまで。あとで補充するつもり。

以下は28日の追記。

船井さんのプレゼンテーションについて,追加の感想をひとこと。
鬼遊びの「オニ」をどのように特定するか,その背景に存在する「カミ」をどのように考えるか,その宗教的背景に迫る,きわめて意欲的な問題提起であった。それは同時に,スペイン・バスク地方の子供たちの「遊び」を想定し,その背景にある「カミ」観念を類推するところにまで問題意識が伸びていて,まさに「遊び」のグローバル化を考えるための,核心に触れる話題だった。

なかでも,英語圏では,日本の鬼に相当する表現のひとつに「it」がある,という指摘はわたしには衝撃的だった。そうか,It's fine. というときの「It」とはなんだろうと,かねがね考えていたからである。天気や自然現象を現す表現のときの主語をなす,この「It」とはなにか,と。これは日本語の「カミ」観念にきわめて近い,と。しかし,どこか少し違うなぁ,と。

それは,ドイツ語圏でいえば「Es」だ。しかし,この非人称「Es」はフロイトをとおして特別の意味付与がなされ,いちやく有名になった。フロイトの「エス」は日本語にもなったように,人間の「内なる他者」であり,意識(理性)をも支配する無意識の帝王の名称だ。これを人間の「内なるカミ」と置き換えることも可能だろう。

ここまで考えてくると,スペイン・バスクの「カミ」がどのような性格のものなのか,とても知りたいところである。その席には,バスク研究者の竹谷さんもいるのだ。「it」や「Es」に相当することばは,スペイン語ではなんというのか,そして,バスク語ではどうか。その意味内容はどのようなところまで伸びているのか,ということを聞いてみたかった。おそらくは,スペイン語とバスク語では,ことばの誕生からしてまったく異なる文化的(宗教的)・歴史的背景を背負っているのだから,そこには面白い話題があるはずだ。まあ,この問題は,国際セミナーのディスカッションのポイントとして楽しみにしておくことにしよう。もっとも,事前に,竹谷さんからのコメントを,このブログにいただけたらありがたいかきり。楽しみにして,待つことにしよう。

もうひとことだけ。日本の遊びの原点のひとつは「神遊び」だという仮説を,わたしは以前からもっている。奈良時代の天皇の「野遊び」は,自然と身体との「接触」に眼目があって,大自然のもつ呪力を天皇の身体にいただくためのもので,そのために天皇は定期的に「野宿」をしている(『古事記)。野の花を摘むのも,そのためのひとつの儀礼として行われた,と。

この系譜は,「物見遊山」として,庶民にも継承され,「花見」などは現代にも引き継がれている。ただし,それは形骸化してしまって,天皇の行っていた「野遊び」の意味は失われている。しかし,「花見」の飲み食いはともかくとして,心静かに「花見」を楽しむと,どこか日常のこころの憂さが洗われるように感ずるのは,多くの人びとが経験しているところだ。

日本の「鬼遊び」もまた一種の「神遊び」のバリエーションではないか,とわたしは考えている。「カミ」は良いことも悪いことも行う。バリ島の「魔女ランダ」(中村雄二郎)も同じだ。日本の「鬼」もまた同様。赤鬼・青鬼の話はその典型のひとつ。このことと,日本の鬼ごっこの「追う・逃げる」の関係が,捕まえると,その瞬間からその関係が「逆転」するというのも,とても意味のあることではないか,と船井さんの話を聞きながら考えていた。

このつづきを,どこかでできるといいなぁ,とわたしは密かに楽しみにしている。船井さんの「遊び」研究が,バスクで注目されているのは,バスクと日本の類似性と相違性に強い関心を寄せているバスク人のハートのどこかと共振・共鳴するものがあるからなのだろう。これぞ,国際セミナーの醍醐味だと思う。

以上,とりあえず,追加まで。

0 件のコメント: