2012年5月1日火曜日

「まあちゃん」という人と「富士へ・千九百0九年八月」竹久夢二。今福龍太編『むかしの山旅』より。

『スポートロジイ』創刊号の初校段階の仕事が一区切りついて,ほっとしたので,机上に積んである本の一つに手を伸ばす。それが,たまたま,今福さんが送ってくださった『むかしの山旅』(河出文庫)。その冒頭に,竹久夢二の「富士へ・千九百0九年8月」という文章が載っている。そのすぐあとには,芥川龍之介を筆頭に錚々たる人びとの「山旅」の文章がつづく。なのに,なぜ,竹久夢二なのだろうか?とちょっぴり疑問をいだきながら読みはじめる。

すぐに,納得。冒頭から,あの竹久夢二の美人画を彷彿とさせる文章が,惜しげもなく連なっている。そして,「まあちゃん」と呼ばれる,か弱き美人が登場する。あの絵のモデルそのものといってよい,病弱気味の女性が,ごく当たり前のように描かれている。しかも,一気に竹久ワールドに持ち込まれてしまう。たとえば,こうだ。

この夏こそは別れ話も熟して,まあちゃんは九州へ旅し,自分はこの高原の村落へ住んで,思い残した二人のことや,まだ覚め果てぬ夢を思い捨てようと企てた。数ヶ月の後,二人は,他人になって,御殿場の駅で落ち合った。落ち合ったのではない,やっぱりどうかして新しい刺激のなかで生きるか,或いは曾て知らぬ別な空気の中に住んで見たかった。
それで富士へ登って見ようなどという気になったのだ。

こうして富士登山の様子が描かれる。
竹久夢二の文章は,あの絵とまったく同じだ。なんとも気だるくて,身の置き場もないほどかったるいのだが,それでいて,ぐいっと惹きつけられて身動きができなくなってしまう。そして,あの病弱気味の美女に手をさしのべ,寄り添わずにはいられなくなるような,不思議な世界に没入してしまう。なんなのだろう,この感覚は。世にいう理性などとはまるで無縁の,男と女の,ことばでは表現不能のほわーんとした,あやういほのぼの感,とでもいえばいいのだろうか。合理性などとはまるで無縁の,非合理の世界に全身全霊,まるごと身を投げ出したくなるような,そんな魅惑的な世界。

流れている時間の速さが,こんにちのわたしたちが感じているものと,まるで違う。ゆったりと流れているというか,いや,違う。「まあちゃん」は疲れてしまうとすぐにごろりと横になり,いちごを食べる。しばらくするとまた歩きはじめる。そして,また,すぐにごろりと横になりいちごを食べる。それに黙って付き合っているわたし。ときおり,時間を気にはするのだが,日没前に山小屋に到着するかどうかが心配になるときだけ。あとは,まったく無頓着。

それでいて,山の自然とはみごとに向き合いながら,ぞんぶんに楽しんでいる二人。しかし,とうとう高山病のために一夜明けたつぎの日には下山する。なんとも,ゆったりとした時間の経過。こういう時間をわたしたちはすっかり忘れてしまっている。しかも,男と女の,とろけるような関係を大事にする竹久夢二の感性が,あの絵と同じように伝わってくる。

今福さんは罪な人である。こういう文章を『むかしの山旅』の冒頭にもってくる。超有名人たちの「山旅」の文章を集めたアンソロジーだから,どんな順番に並べてみても,なんの不思議もない。しかし,トップ・バッターは竹久夢二をおいてほかにはないのだ。今福さんは,そこに鋭く反応して,冒頭に竹久夢二をもってきたに違いない。

わたしは,まんまと,今福さんの戦略にはまってしまった。
くわえて,主人公の女性が「まあちゃん」である。わたしの子どものころの呼び名も「まあちゃん」。男と女の違いはあるものの「まあちゃん」に変わりはない。だから,文中に最初に「まあちゃん」が登場したときには「エッ」とおもって立ち止まってしまう。それが,また,じつに効果的にわたしのこころに食い込んでくる。そして,この「まあちゃん」に親しみを感じてしまう。これは理屈ではない。情緒の問題だ。理性もなにも関係ない。心地よい,それだけで十分。

この感覚を久しぶりに思い出した。からだが思い出している。頭の記憶ではなく,からだの記憶として。今福さんが,このアンソロジーを思いついたのも,たぶん,ここにあるのだろう。頭の記憶の山旅ではなく,からだに刻み込まれた山旅の記憶を呼び覚まそうと。

ほんのひとむかし前の「山旅」は,こんなにものどかに,ゆったりとした時間の流れのなかで満喫されていたのだ,と。では,この数十年,あるいは,たった100年の間に,なにが変わってしまったというのだろうか。ここを思い返すべし,と今福さんは警告しているようにわたしには伝わってくる。

そのための,冒頭の仕掛けが,竹久夢二の文章なのだ。そして,みごとにそれは成功している。だって,まんまとこのわたしは引っかかってしまったのだから。

この本は読みはじめたら止められない。このあとにつづく芥川龍之介の文章は,たった8ページだ。短編の名人の,たった8ページの「山旅」の文章がどのように書かれているのかは,読まずにはいられない。そして,そのつぎには大町桂月とつづく。

ああ,今夜は眠れない。
ずっと前に送っていただいていたのだが,『スポートロジイ』の仕事が一区切りつくまでは・・・と禁欲の時間をやり過ごしていた。その反動というべきか。今夜こそは,その禁欲を解いて,好きなだけ読んでいいことにしよう。こんな夜もあっていい。これもまた人生。

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