宿泊の利用率が99%を越えるといわれている日本一の国民宿舎・鵜の岬を苦労して確保してもらって,2泊3日で,北茨城を旅してきました。北茨城といえば,おなじみの地震多発地域です。わたしが滞在していたときも,地震がありました(18日の夕刻)。
ちょうど,お風呂に入っていて(9階にある大浴場は見晴らしがよくて最高),いい気分でいました。が,周囲の人はだれも気づいていません。はじめに「ドンドン」と下から突き上げられるような感じだったものが,やがて,ゆらゆらと揺れはじめました。が,そんなに大きな揺れではなかったせいか,だれも気づいてはいないようでした。だから,わたしも黙っていました。が,あとで考えてみれば,みんな見知らぬ人ばかり。気づいていてもこの程度なら大丈夫と判断し,黙っていたのかもしれません。
まあ,そんな具合で,早速,鵜の岬の大浴場で地震の歓迎を受けました。
その翌日,高萩市に住む知人の家を訪ねて,「3・11」の地震体験とその後の様子について詳しくお話をうかがうことができました。やはり,被災者の生の声は迫力があって,報道されている情報とは異質のものでした。
知人の家は,地元の名家で,古いけれどもとてもがっしりした造りの家でした(若い学生時代から通っていますので,熟知していました)。10畳ほどの部屋が四つ,田の字型の構造になっていて,その周囲を廊下で囲むようにできていました。ですから,柱は田の字の線の交差するところの9本が立っていて,その周囲を囲む廊下のところにやはり9本,使われていました。ですから,普通であれば,9本の柱で済むところが,その倍の18本の柱が用いられていました。
それでも揺れが激しくて,ガラス戸のガラスは全部割れてしまい,障子紙も全部,ひとます毎に,みごとに破れて変形し,床の間の土壁も,部屋を仕切ってある土壁も,土は全部剥落して骨になっている竹の井桁だけになってしまった,とのことです。そして,家が少しだけ傾いただけで,屋根の瓦は一枚も落ちることなく,もとのままだったといいます。
で,言われてみて,外にまわって屋根を見上げてみましたら,まったく普通の家の屋根ではないことがわかりました。太い柱と屋根を支えている横木(これもじつに太い)が交叉する部分は,しっかりとかみ合わせてあって釘は使われていません。まるで奈良の古い寺の建築と同じ建て方がしてあります。この家は,明らかに宮大工の仕事だということもわかりました。その上に乗っている屋根もどっしりしていて,瓦も一枚ずつ固定してあって,じつに手の込んだ建築だと,修復に当たった大工さんたちが語っていたということでした。
ですから,障子も襖もガラス戸も,そして壁もボロボロになってしまったけれども,屋根はどこも壊れていなくて,家全体がやや傾いただけだった,とのことでした。
で,この家を取り壊して立て替えるか,この家をそのまま修復させるか,ずいぶんと迷ったそうです。新築にしてしまった方が住みやすいからそうした方がいいという意見の人と,この家は素晴らしい建築なのだからこのまま残して修復した方がいいという意見の人とに分かれたとのこと。いろいろと考え,迷いに迷ったあげく,先祖代々,住んできた家は残したいという気持ちの方が強かったので,修復することにしたそうです。いまは,もう8割方修復が終わっていました。
さらに,びっくりしたのは,屋敷の中にある二階建ての物置です。長年,雨風に打たれて建物の外側の木材はボロボロです。が,びくともしなかったそうです。もちろん,屋根もそのまま。よくみると,校倉造りになっているではありませんか。全部,横木をかみ合わせて,二階部分まで積み上げてあります。奈良の正倉院を思い出しながら,やはり,むかしながらの名建築といわれてきたものは凄いものだ,と感心してしまいました。
周囲の家を見回してみますと,新築の家が多く,それらは全部,新しく建て直したものだそうです。中には,屋根だけ葺き替えた家もあるようです。そして,まだまだ,修理の手が廻らない(人手不足の)ため,ブルーシートで被せてあるだけの家もたくさんありました。
そのようにして眺めてみますと,地震直後の被害の大きさというものが,次第に浮かび上がってきます。
これに加えて海岸沿いの津波による被害が,いまも,そのみじめな姿を残していました。が,この話は,つぎにしたいと思います。
ちょうど,お風呂に入っていて(9階にある大浴場は見晴らしがよくて最高),いい気分でいました。が,周囲の人はだれも気づいていません。はじめに「ドンドン」と下から突き上げられるような感じだったものが,やがて,ゆらゆらと揺れはじめました。が,そんなに大きな揺れではなかったせいか,だれも気づいてはいないようでした。だから,わたしも黙っていました。が,あとで考えてみれば,みんな見知らぬ人ばかり。気づいていてもこの程度なら大丈夫と判断し,黙っていたのかもしれません。
まあ,そんな具合で,早速,鵜の岬の大浴場で地震の歓迎を受けました。
その翌日,高萩市に住む知人の家を訪ねて,「3・11」の地震体験とその後の様子について詳しくお話をうかがうことができました。やはり,被災者の生の声は迫力があって,報道されている情報とは異質のものでした。
知人の家は,地元の名家で,古いけれどもとてもがっしりした造りの家でした(若い学生時代から通っていますので,熟知していました)。10畳ほどの部屋が四つ,田の字型の構造になっていて,その周囲を廊下で囲むようにできていました。ですから,柱は田の字の線の交差するところの9本が立っていて,その周囲を囲む廊下のところにやはり9本,使われていました。ですから,普通であれば,9本の柱で済むところが,その倍の18本の柱が用いられていました。
それでも揺れが激しくて,ガラス戸のガラスは全部割れてしまい,障子紙も全部,ひとます毎に,みごとに破れて変形し,床の間の土壁も,部屋を仕切ってある土壁も,土は全部剥落して骨になっている竹の井桁だけになってしまった,とのことです。そして,家が少しだけ傾いただけで,屋根の瓦は一枚も落ちることなく,もとのままだったといいます。
で,言われてみて,外にまわって屋根を見上げてみましたら,まったく普通の家の屋根ではないことがわかりました。太い柱と屋根を支えている横木(これもじつに太い)が交叉する部分は,しっかりとかみ合わせてあって釘は使われていません。まるで奈良の古い寺の建築と同じ建て方がしてあります。この家は,明らかに宮大工の仕事だということもわかりました。その上に乗っている屋根もどっしりしていて,瓦も一枚ずつ固定してあって,じつに手の込んだ建築だと,修復に当たった大工さんたちが語っていたということでした。
ですから,障子も襖もガラス戸も,そして壁もボロボロになってしまったけれども,屋根はどこも壊れていなくて,家全体がやや傾いただけだった,とのことでした。
で,この家を取り壊して立て替えるか,この家をそのまま修復させるか,ずいぶんと迷ったそうです。新築にしてしまった方が住みやすいからそうした方がいいという意見の人と,この家は素晴らしい建築なのだからこのまま残して修復した方がいいという意見の人とに分かれたとのこと。いろいろと考え,迷いに迷ったあげく,先祖代々,住んできた家は残したいという気持ちの方が強かったので,修復することにしたそうです。いまは,もう8割方修復が終わっていました。
さらに,びっくりしたのは,屋敷の中にある二階建ての物置です。長年,雨風に打たれて建物の外側の木材はボロボロです。が,びくともしなかったそうです。もちろん,屋根もそのまま。よくみると,校倉造りになっているではありませんか。全部,横木をかみ合わせて,二階部分まで積み上げてあります。奈良の正倉院を思い出しながら,やはり,むかしながらの名建築といわれてきたものは凄いものだ,と感心してしまいました。
周囲の家を見回してみますと,新築の家が多く,それらは全部,新しく建て直したものだそうです。中には,屋根だけ葺き替えた家もあるようです。そして,まだまだ,修理の手が廻らない(人手不足の)ため,ブルーシートで被せてあるだけの家もたくさんありました。
そのようにして眺めてみますと,地震直後の被害の大きさというものが,次第に浮かび上がってきます。
これに加えて海岸沿いの津波による被害が,いまも,そのみじめな姿を残していました。が,この話は,つぎにしたいと思います。
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