2012年5月21日月曜日

北茨城の震災被害の大きさに驚く。それでも海岸近くに住みつづける人間の意思をおもう。

北茨城ということばは,地震が多発する地域として全国的に知られるようになったが,大震災のときも大きな被害を被っていたことは意外に知られていないとおもう。なにを隠そう,このわたしもそのひとりだ。

19日(土),高萩市の知人は五浦の六角堂(岡倉天心)が津波で流されてしまったが,ようやく再現されたからといって,案内してくれた。そこでの感慨もさることながら,わたしには,その途中の光景が忘れられない。

五浦といえば,すぐとなりは福島県。茨城県の北部は,山が海岸まで迫っていて,平地はほんのわずかしかない。そのわずかな平地に人びとは家を建てて暮らしている。海岸から砂浜があり,防波堤のすぐそばに民家があり,国道が走り,常磐線が山側を走っている。だから,大きな都市はないが,小さな町は点々としてつながっている。そのあたりは,津波が常磐線を越えて,山側まで迫ったという。ということは,このあたりの家は全部,津波に襲われたということだ。

その地域の国道を走っていると,ほとんどの家の屋根がピカピカ光っている。そういう家のほとんどは津波に流されたあとに新築した家だという。そうでなければ,たまたま残ったけれども,屋根は地震で壊れてしまったので,それを修復したのだという。それでもまだ修復できないで,順番を待っている家の屋根はブルー・シートが被っている。そういう光景がつづく。

少し込み入った街中に入ると,歯が抜けたような空き地が点々とある。よくみるとその空き地には家の土台(礎石)が残っている。その周囲に建っている家は,ほとんど新築である。そして,鉄筋コンクリートでできた家だけは津波に流されないで残っている。ということは,木造の家は全部,津波に流されたということだ。つまり,この地域も津波で全滅状態になったのだ。しかし,名の知れた都市でも町でもないので,マスメディアはみてみぬふりをしたのだ。だから,わたしたちは,こういう地域の惨状を知らないでいた。

テレビで流れた津波の,あの光景は,この地域にも間違いなく襲っていたのだ。

そして,考えた。

東北地方の大きな漁港などは,再度の被災を避けて高台に移住すべきだという意見が強い。そして,政府も県も加わって,住民の意志を確認することもなく,高台移住を前提とした補助金の分配が,復興の大きなネックになっていると聞いている。しかし,その対象になっていないこの地域では,おそらく自費で家を再建しているという。しかも,自分の意志で,もともとの土地に。そうでない人は,どこかに転居したという。

津波に流されるようなところに住んではいけない,という権利はだれにあるのだろうか。テレビにも放映された東北の漁港の漁師のひとりは,滅多にやってこない津波のために高台に移住する意志なんかない,と語っていた。そして,津波がきたときはきたときで覚悟している。だから,もとどおりの土地に家を建てて住みたい。そして,これまでどおり漁師をしていきたい,と。なぜ,それができないのか,と。

東北地方には,これまで何回も大きな地震があり,そのつど大きな津波が押し寄せて,被害にあっていることは,その地域の住民はみんて知っている。にもかかわらず,先祖代々そこに住みつづける。そのことの意味は,東京の都会に住む高級官僚や政治家や財界の人間たちには理解できないだろう。

住めば都という。どんな僻地や危険をともなうような土地であっても,住めば都なのである。他人がとやかくいうべき筋合いのものではない。いやな人はさっさと引っ越している。しかし,その土地に愛着を感ずる人にとっては,ほかのどの土地よりも住み心地がいいのだ。

この北茨城の海岸地域に住む人たちにとっても,大きな津波が来ないかぎり,住み慣れたいいところなのである。だから,また,津波が襲ってくるかもしれないけれども,おそらくそれはずっとさきのことに違いない,とみずからを納得させているのだろう。

それでいいのだろう,とわたしはおもう。おそらく,わたしがその立場にあったとしたら,やはり,同じように先祖代々の土地に家を再建して住む道を選んだだろう。

復興とはなにか。まず,なによりも地域住民の意志を確認することが先決ではないのか。それを行政指導が優先されるようなことになると,とんでもない「復興」がはじまりかねない。つまり,『ショック・ドクトリン』(ナオミ・クライン著)で明らかにされたような,「惨事便乗型資本主義」が「復興」の名のもとに乗っ取りかねないからだ。

が,すでに,その路線を選んだのは宮城県知事だ。それに抵抗しているのが岩手県知事だ。この明暗を分けた知事の考えは,やがて,結果がでてくる。どちらが地域住民にとって満足のいく「復興」になるかは,火を見るよりも明らかだ。

こんなことを考えながら,五浦の六角堂の,ここまで津波がやってきたという標識を眺めていた。ここの「復興」は茨城大学が支援しているという。そして,その日も,沖合の磯の上に石灯籠を再建する作業を行っていた。やはり,ここでも,同じような津波がやってくれば,また,元の木阿弥となることを承知で,この作業に取り組んでいる。それでいいのだ,としみじみ思いながら,その作業に眼をこらす。

人間はこんなことをくり返しながら生きてきたのだ。改められるものは改めなくてはならないが,そうでないものは,そのままにしておくしかないのだろう。それは「合理主義」の<外>にあるものなのだから。

こんな文章を書きながら,わたしの脳裏にはジョルジュ・バタイユの『呪われた部分 有用性の限界』(中山元訳,ちくま学芸文庫)がちらついている。そして,もう一度,読み直そうとおもっている。

いま,わたしたちに必要なのは,こういう根源的な問い直しではないか,と。

そして,スポーツ文化論やスポーツ史研究もまた,このような根源的な問い直しが迫られている,とわたしは考えている。まもなく世にでる『スポートロジイ』(みやび出版,今月末刊行)は,こういう深い反省に立つ企画である。ご批判をいただければ幸いである。

今回の北茨城への旅は,なにかと収穫が多く,また,新たな出発ができそうだ。
高萩市の知人に感謝したい。

1 件のコメント:

柴田晴廣 さんのコメント...

私自身、被災前を含めて北関東へも東北にも行ったことはなく、あくまでも報道による印象と推測になりますが、「津波がきたときはきたときで覚悟している」という漁師の言には疑問を感じます。
 実際仮設住宅での漁師へのインタビューで仮設での生活の不満をたらたら言っていましたから・・・
 上述のように東北へ、私は行ったことがありません。
 しかし震災前の漁師の家を訪ねるなどのテレビ番組(東北には限らないが)を見て、漁師というのは、かなり贅沢な暮らしをしているなぁ
 儲かる商売だなぁと思いました。
 実際、密漁の問題では暴力団の関与を指摘する報道も流れています。
 暴力団が関与する仕事=楽して甘い汁が吸える、漁師という仕事にはこういった側面があるのではないでしょうか?
 本音と建前を使い分けるのが、わが国です。
 テレビのインタビューなどで聞かれれば、先祖代々の土地に愛着があるからと応えるでしょう。
 しかし稲垣さんが言う「滅多にやってこない津波のために高台に移住する意志なんかない」、「もとどおりの土地に家を建てて住みたい」、「これまでどおり漁師をしていきたい」というきれいごとの裏には、漁業権という既得権を離したくないという本音が見え隠れしています。
 転居した人、今までのところに家を建てた人、漁業権の恩恵を受けている割合はどうなのか?
 被災地に足を運んだことがない私としてはその辺りがもう少し知りたかったです。
 ちなみに、稲垣さんの故郷であり、私が住む東三河の表浜地方=遠州灘沿岸では、三百余年前の宝永の大地震の津波で被災した後、集団で高台に移転しています。
 http://www.jgnn.net/ls/2011/04/post-1831.html
 もちろん、このころは、先祖代々の土地という感覚は今より強かったわけです。
 一方、漁業権が既得権という感覚は今より弱かったと思います。
 「惨事便乗型資本主義」も問題ですが、「既得権焼け太り的復興」、「既得権ごね得復興」というのも問題だと思います。