2012年5月14日月曜日

ETV特集・テレビが見つめた沖縄・アーカイブ映像からたどる本土復帰40年,を見る。

5月13日(日)午後10時から11時30分まで,NHKのEテレが,ETV特集を放映した。題して「テレビが見つめた沖縄・アーカイブ映像からたどる本土復帰40年。テレビの番組表には,▽沖縄と本土・・・揺れた若者たちのその後▽沖縄戦の記憶,知花くらら,とある。

が,この番組のナビゲーター役は,西谷修さんだ。もう少し精確にいえば,西谷修さんと知花くららさんのお二人をナビゲーター役として登場させ,番組が進行していく。知花くららさんは,沖縄出身の若者代表として,西谷修さんは,長年にわたって沖縄問題を考えつづけてきた思想家・哲学者として,それぞれの持ち味を出し合いながら,粛々と「復帰40年」がなにを意味していたのかをふり返る。その主役は,NHKがこれまでに撮りためてきた映像アーカイブである。

沖縄が1972年に本土復帰をはたして「40年」。この「40年」を映像アーカイブから,さまざまなシーンを切り取ってきて,少しずつ問題の核心に迫っていく。とてもいい番組に仕上がっていて,久しぶりに深く考えさせられた。欲をいえば,もっともっと,沖縄問題を考える番組を,NHKならではの映像アーカイブを用いて制作し,放映してほしいところだ。なぜなら,本土で起きた東日本大震災関連の,あの膨大な情報量にくらべたら,沖縄の基地問題に関する情報の量は圧倒的に少ないからだ。その結果,沖縄の米軍基地問題に関する「無知」が,当たり前のようにヤマトンチュー(本土の人びと)の間に広がっていく。

1972年に本土復帰(内実は米軍支配下から逃れたい一心での本土復帰)をはたした直後に,中卒で集団就職をして愛知県の機織工場にやってきた少女たちの話が,まず,冒頭でわたしの頭を直撃した。みんな親切でいい人たちだと思っていたが,少し落ち着くと,周囲の人たちの自分たちを見る眼がまったく違うことに気づき,この人たちが沖縄についてなにも知らないことに驚いた,という。たとえば,沖縄ではお風呂に入るのかと聞かれたり,裸足で歩いているのかと聞かれたりして,ショックを受ける。まるで原始人のようなイメージで見られていることを知ったときの悲しさを,いまも忘れることはできないという。

いまはもう,そんなことを聞く人はいないと思うが,米軍基地を沖縄県に押しつけて平気でいられる人は,いまも圧倒的多数を占めている実態は変わらない。都道府県知事ですら,沖縄県の長年にわたる基地負担の実態を知りながらも,その負担軽減のために基地の一部をわが県で引き受けようとはいわない。みんな「見て見ぬふり」をして,やり過ごそうとしているのだ。その意味では,根本的なところでは,40年前の本土復帰前となにも変わってはいない。

「沖縄の勲章」というドキュメンタリー映像もまた,なんともはや,やりきれない気持にさせられた。沖縄戦での功績を讃えて,生き延びた人びとに「勲章」を日本政府は与えるという。沖縄戦で集団自決をして死んで行った親族や友人,隣人たちのことを語ろうともしない人びとに勲章を授与するというのである。そんなものは欲しくもなんともない。それどころか拒否したいくらいだろう。しかし,勲章に付随している「年金」は欲しい。だから,ただ,黙って勲章を受け取る。その手は震えてさえいるようにみえた。その間の経緯について,コメントをつける西谷修さんと仲里効さんのことばが重い。知花くららさんは,自分の「おじい」から聞いたという話をする。

この番組の最後のところで,基地移転候補地である辺野古の美しい海岸を遮る金網の前での4人のお話が印象に残った。外国にでたときに,「あなたはどの国からきたのか」と聞かれたらなんと答えますかという問いに,知花さんは「I am OKINAWAN」と答えるという。問いかけた田仲康博さんもまた,長いアメリカ生活をふり返り,ぼくも「JAPAN」とは言えなかった,言うことに強い抵抗があった,と告白。しかも,知花さんは,外国にでると「OKINAWAN」になってしまうけれども,東京で仕事をしているときには「沖縄と東京」とはフラットにつながっている,そういう自分もいる,と正直に語る。西谷さんは,この若い二人の会話に触発されるようにして,この会話こそじつにフレッシュだと受け止め,「沖縄と日本」という,この「と」をとおして未来への希望がかいま見える,と結ぶ。(このあたりの詳しいことは,西谷さんのブログに書かれているので参照のこと)

西谷さんが,NHKの番組のお手伝いをしてきたと言って真っ黒に日焼けした顔をして太極拳の稽古に現れたのは,5月2日(水)のことだ。そのときにはこの番組のことについて多くを語ることもなく,照れくさそうに,NHKの映像アーカイブはもっと活用されるべきだ,というようなことを力説されていたと記憶する。わたしの知己でもある仲里さんと田仲さんの話は,ほんの少しだけされたけれども中味には入ることはなかった。

毎週,顔を合わせている西谷さんが,こういう「沖縄復帰40年」という重い番組のナレーションまで担当していたとは知らずにいた。映像に映し出された西谷さんの顔は,いつも「まぶしそう」な眼をしていたのが印象に残った。たぶん,昼の録画が終るとホテルに帰って原稿を書いていたと聞いているので,寝不足がつづいていたのではないか,とわたしは想像する。そして,一週間後の5月9日(水)の太極拳の稽古は,珍しく「風邪を引いてしまったので,大事をとって休みたい」とメールが入った。4月の後半から,相当に無理が重なっていることは聞き知っていた。おそらく,その峠を越えてほっとしたのだと思う。

このブログでも紹介済みであるが,岩波の雑誌『世界』6月号は特集・沖縄「復帰」とは何だったのか,を組んでいる。ここにも西谷修さんと仲里効さんは健筆をふるっている。その他の人びとの論考も素晴らしい。ぜひとも手にとって読まれることをお薦めしたい。

昨夜は,あの番組のあと,じっと沖縄に思いを馳せていた。
娘がウチナンチュと結婚して,沖縄に住みついているというのに,わたしのこころは,なぜか,沖縄に向かわない。というか,行きたいのにからだが動かない。行動にならないのだ。この「こころ」のザワツキとからだの反応がなにを意味しているのか,いま,しばらく考えてみたいと思う。

つぎの太極拳の稽古のときに,西谷さんはどんな話をされるのだろうか,といまから楽しみ。もちろん,風邪が全快していることを祈って。

1 件のコメント:

はやまんちゅう さんのコメント...

中学校3年生の息子が修学旅行で沖縄に行ってきました。息子は大変満足して帰ってきました。ひめゆりの塔でも感じたものがあったようです。
 ただ……、残念なのは、引率の先生達の沖縄に対する問題意識の低さです。返還40年、と言われますが、なぜ返還なのか?戦後67年が経過しているにのに40年というのは何を意味するのか。すぐにわき出る疑問かと思います。そういった面での生徒への投げ掛けがもう少し欲しかったと感じました。