もうすでに多くの人たちがご承知の話なのだろうとおもいますが,わたしにとっては初めての体験でしたので,はたしてこんなことがあっていいのだろうか,といささか身動きができないほど驚いています。いったい,世の中はこれからどうなっていくのだろうか,と空恐ろしい思いをすると同時に,茫然自失してしまい,自分の生き方をどうすればいいのか,ということを真剣に考えさせられてしまうほどの驚きです。
じつは,この間から,わたしが少年時代の重要な時間を過ごした故郷が,大雨が降ると大水がでて学校がお休みになるという不思議なところだった,ということが気になりはじめ,いったいあの地域はどういう集落だったのかと考えはじめていました(その一部は,このブログでも書きました)。そうして,なぜ,あの地域は大雨が降ると大水がでるのか,地図であの地域のロケーションがどのようになっているのか,その謎解きをして確かめるという方法でした。そこで,まずは,いま,評判のグーグルの地図をインターネットで開いてみました。その結果,驚くべき発見がつぎからつぎへとあって,なるほど,そういうことであったのか,と納得することばかりでした。
結論から言ってしまえば,大水が出るということは,もともと,人の住める場所ではなかった,ということです。にもかかわらず,そういう地域に,なぜ,人は住みつかなくてはならなかったのか,ということです。そこには,こんにちのわたしたちからは想像もできない,さまざまな理由があったに違いありません。つまり,日の当たる場所には住めなかったということ,では,その理由とはなにか,というところに分け入っていくしかありません。
わたしの親しい友人のひとりに,河童を研究している人がいます。この人とはもうずいぶん長い間,河童とはいかなる存在だったのか,という議論を積み重ねてきています。ですから,この人の書く論文には大きな影響を受けています。そのこととの関連でいえば,わたしが少年時代を過ごした集落は,河童と呼ばれても仕方のない人たちがいっぱい住んでいた,ということになります。はたして,そうだったのか。
誤解を防ぐ意味でお断りをしておきますが,この河童にも等しいとおもわれる人びとのなかから,じつは,とてつもなく立派な人物が,つぎからつぎへと輩出しているとうい事実です。詳しいことについては,いつか,機会をみつけて書いてみたいとおもいますが,今回は割愛。ただし,あの菅原道真もまた河童族の出身だ,ということだけはここに書いておきたいとおもいます。もうひとことだけ。大和朝廷の意に沿わなかった人びとの多くが河童に仕立て上げられていった節がある,ということです。中上健次の小説ではおなじみのように,いわゆる被差別部落である路地に住む「おリュウのおばあ」が語るように,「世が世ならば天皇家ともあろう者が・・・」というセリフが,ここでも彷彿とさせられます。
たとえば,わたしの小学校時代の同級生(男女合わせてたった48人)のほとんどは河童族です。その出自があまりに複雑怪奇なために,ほんとどの人がその事実を自覚していません。しかし,いま,会って話をしてみると,みんなそれぞれに立派な生き方をしていて驚きます。最近は,つとめて同級会に出席するようにしていますが,ああ,こういう人たちだったのか,といつも会うたびに感動ばかりしています。ついでに言っておけば,あの菅江真澄(本名・白井秀雄)もこの集落の出身ではなかったかという説があります。わたしは半分以上,信じています。この集落のなかには白井姓は多く,しかも,優秀な人がいまも輩出しています。ですから,その白井姓のどこかが菅江真澄の実家であったとしてもなんの不思議もない,と。
勘のいい人なら,すでにお気づきでしょうが,菅原と菅江は,「菅」という漢字と音で共通しています。どこかでつながっている,とわたしは考えています。この菅原姓の出どころは,奈良県の菅原地区です。垂仁天皇を祀った前方後円墳のある地域が,菅原地区です。あの菅原寺のあるところ一帯をいいます。そこが,垂仁天皇に取り立てられた野見宿禰の第二の本拠地であったことも銘記すべきでしょう。そして,菅原道真は,この野見宿禰の子孫であり,この地で生まれ成長しました。
本名白井秀雄がわざわざ菅江真澄を名乗ったというところに,わたしは深い意味があると考えています。菅江真澄は,なぜか,西に向かわずに東北から北海道に向かって歩を進めました。これもまた,謎多き行動ではあるのですが,むしろ,そこにこそ菅江真澄の本領があったのではないか,とわたしは考えています。そして,もっと,驚くべきことは,菅江真澄はみずからの出自について死ぬまでひとことも語らなかったという点です。わたしは,ここに菅江真澄の謎のすべてが秘められていると考えています。
さてはて,地図の話にもどしましょう。このわたしの少年時代を過ごした重要な地域を,グーグルの地図でたどってみましたら,腰を抜かすほど驚きました。まさに,浦島太郎のような,どう説明したらいいのかわからないような,摩訶不思議な体験をしてしまいました。こんなことがあって,はたしていいのだろうか,と。
わたしは若いころ山歩きをしていましたので,いわゆる5万分の1の地図(国土地理院発行)をいつも携帯して,磁石とにらめっこをしながら,現在地を確認し,向かうべき方向をさぐるということに,ある程度慣れています。つまり,地図をみることに慣れています。そのわたしがインターネット上に流れているグーグルの地図を開いて,これはなにごとかと驚いてしまいました。ほんとうに,現代という時代はいったいどうなっているのか,と。
その第一は,5万分の1の地図には書いてないことがいっぱい書いてあるということです。たとえば,飲み屋さんや食べ物屋さん,コンビニから田舎の小さな有限会社の名前まで書き込んであります。しかも,むかしは大水がでる低地に,いまでは,家がいっぱい建っているという事実です。ということは,豊川放水路が作られてからは,大水はでなくなった,ということなのでしょう。その変貌ぶりに呆気にとられてしまいました。
それだけではありません。平面図をクリックすると,航空写真で撮影した映像で,その集落のすみずみまで写し出してくれます。ズームアップすれば,一軒一軒の家の屋根の瓦まで,そして,庭に停車してある自家用車まで,まるみえです。さらに,驚くべきことに,ストリート・ヴューをクリックすると,人の歩く視線からの映像が自由自在に写し出されてきます。場合によっては洗濯物まで映っています。これには,もはや,言うべきことばもありません。
たとえば,わたしが少年時代を過ごした寺が,いま,どのような状態になっているのかは,ここ川崎市に居ながらにして一目瞭然となります。それも,俯瞰写真,横からの映像,寺の周囲を一回りしてみるとどうなるか,というところまでパソコンのディスプレイに写し出されてきます。これは,実際に,そこを尋ねるよりも詳しい情報が,パソコンをとおして入手することができる,ということです。こんなことがあってもいいのだろうか,とわたしはじっと腕を組んで考えてしまいます。
便利であることはいうまでもありません。しかし,この便利さが,なにか人間が生きていく上でとてつもなく重要なものを,どこかに置き忘れてきてはいないだろうか,と。この空恐ろしき機械仕掛けに支配されている人間とはいったいなになのか,と。
つとにバタイユが危惧したように,人間はみずからの動物性からどんどん逸脱してしまい,いつのまにやら「事物」(ショーズ)と化し,ついには,みずからが生み出した機械によって制御されてしまうという,まったく違う意味での,新しいタイプの「事物」になりはててしまっている,という次第です。この現実と向き合うことになって,わたしはなすすべを失っています。と,同時に,ひょっとしたら,ここを突き抜けていくことによって,避けがたい破局のさきの展望がえられるのかもしれない,とも考えています。
個人情報がこんなにとりざたされている一方で,住所さえわかれば,その家屋敷の実像がリアルにディスプレイの上で再現できてしまうという現実があります。だからこそ,住所を伏せておかなくてはならないという事態も必然なのかもしれません。わたしは,自分の住所を書き込んで検索してみて,建物はおろか,窓やヴェランダの状態まで写し出されてくる事実を前にして,絶句しています。いったい,世の中,どうなっていくのでしょうか。
この問題,また,いつか,取り上げて考えてみたいとおもっています。で,今日のところはこのあたりで。
じつは,この間から,わたしが少年時代の重要な時間を過ごした故郷が,大雨が降ると大水がでて学校がお休みになるという不思議なところだった,ということが気になりはじめ,いったいあの地域はどういう集落だったのかと考えはじめていました(その一部は,このブログでも書きました)。そうして,なぜ,あの地域は大雨が降ると大水がでるのか,地図であの地域のロケーションがどのようになっているのか,その謎解きをして確かめるという方法でした。そこで,まずは,いま,評判のグーグルの地図をインターネットで開いてみました。その結果,驚くべき発見がつぎからつぎへとあって,なるほど,そういうことであったのか,と納得することばかりでした。
結論から言ってしまえば,大水が出るということは,もともと,人の住める場所ではなかった,ということです。にもかかわらず,そういう地域に,なぜ,人は住みつかなくてはならなかったのか,ということです。そこには,こんにちのわたしたちからは想像もできない,さまざまな理由があったに違いありません。つまり,日の当たる場所には住めなかったということ,では,その理由とはなにか,というところに分け入っていくしかありません。
わたしの親しい友人のひとりに,河童を研究している人がいます。この人とはもうずいぶん長い間,河童とはいかなる存在だったのか,という議論を積み重ねてきています。ですから,この人の書く論文には大きな影響を受けています。そのこととの関連でいえば,わたしが少年時代を過ごした集落は,河童と呼ばれても仕方のない人たちがいっぱい住んでいた,ということになります。はたして,そうだったのか。
誤解を防ぐ意味でお断りをしておきますが,この河童にも等しいとおもわれる人びとのなかから,じつは,とてつもなく立派な人物が,つぎからつぎへと輩出しているとうい事実です。詳しいことについては,いつか,機会をみつけて書いてみたいとおもいますが,今回は割愛。ただし,あの菅原道真もまた河童族の出身だ,ということだけはここに書いておきたいとおもいます。もうひとことだけ。大和朝廷の意に沿わなかった人びとの多くが河童に仕立て上げられていった節がある,ということです。中上健次の小説ではおなじみのように,いわゆる被差別部落である路地に住む「おリュウのおばあ」が語るように,「世が世ならば天皇家ともあろう者が・・・」というセリフが,ここでも彷彿とさせられます。
たとえば,わたしの小学校時代の同級生(男女合わせてたった48人)のほとんどは河童族です。その出自があまりに複雑怪奇なために,ほんとどの人がその事実を自覚していません。しかし,いま,会って話をしてみると,みんなそれぞれに立派な生き方をしていて驚きます。最近は,つとめて同級会に出席するようにしていますが,ああ,こういう人たちだったのか,といつも会うたびに感動ばかりしています。ついでに言っておけば,あの菅江真澄(本名・白井秀雄)もこの集落の出身ではなかったかという説があります。わたしは半分以上,信じています。この集落のなかには白井姓は多く,しかも,優秀な人がいまも輩出しています。ですから,その白井姓のどこかが菅江真澄の実家であったとしてもなんの不思議もない,と。
勘のいい人なら,すでにお気づきでしょうが,菅原と菅江は,「菅」という漢字と音で共通しています。どこかでつながっている,とわたしは考えています。この菅原姓の出どころは,奈良県の菅原地区です。垂仁天皇を祀った前方後円墳のある地域が,菅原地区です。あの菅原寺のあるところ一帯をいいます。そこが,垂仁天皇に取り立てられた野見宿禰の第二の本拠地であったことも銘記すべきでしょう。そして,菅原道真は,この野見宿禰の子孫であり,この地で生まれ成長しました。
本名白井秀雄がわざわざ菅江真澄を名乗ったというところに,わたしは深い意味があると考えています。菅江真澄は,なぜか,西に向かわずに東北から北海道に向かって歩を進めました。これもまた,謎多き行動ではあるのですが,むしろ,そこにこそ菅江真澄の本領があったのではないか,とわたしは考えています。そして,もっと,驚くべきことは,菅江真澄はみずからの出自について死ぬまでひとことも語らなかったという点です。わたしは,ここに菅江真澄の謎のすべてが秘められていると考えています。
さてはて,地図の話にもどしましょう。このわたしの少年時代を過ごした重要な地域を,グーグルの地図でたどってみましたら,腰を抜かすほど驚きました。まさに,浦島太郎のような,どう説明したらいいのかわからないような,摩訶不思議な体験をしてしまいました。こんなことがあって,はたしていいのだろうか,と。
わたしは若いころ山歩きをしていましたので,いわゆる5万分の1の地図(国土地理院発行)をいつも携帯して,磁石とにらめっこをしながら,現在地を確認し,向かうべき方向をさぐるということに,ある程度慣れています。つまり,地図をみることに慣れています。そのわたしがインターネット上に流れているグーグルの地図を開いて,これはなにごとかと驚いてしまいました。ほんとうに,現代という時代はいったいどうなっているのか,と。
その第一は,5万分の1の地図には書いてないことがいっぱい書いてあるということです。たとえば,飲み屋さんや食べ物屋さん,コンビニから田舎の小さな有限会社の名前まで書き込んであります。しかも,むかしは大水がでる低地に,いまでは,家がいっぱい建っているという事実です。ということは,豊川放水路が作られてからは,大水はでなくなった,ということなのでしょう。その変貌ぶりに呆気にとられてしまいました。
それだけではありません。平面図をクリックすると,航空写真で撮影した映像で,その集落のすみずみまで写し出してくれます。ズームアップすれば,一軒一軒の家の屋根の瓦まで,そして,庭に停車してある自家用車まで,まるみえです。さらに,驚くべきことに,ストリート・ヴューをクリックすると,人の歩く視線からの映像が自由自在に写し出されてきます。場合によっては洗濯物まで映っています。これには,もはや,言うべきことばもありません。
たとえば,わたしが少年時代を過ごした寺が,いま,どのような状態になっているのかは,ここ川崎市に居ながらにして一目瞭然となります。それも,俯瞰写真,横からの映像,寺の周囲を一回りしてみるとどうなるか,というところまでパソコンのディスプレイに写し出されてきます。これは,実際に,そこを尋ねるよりも詳しい情報が,パソコンをとおして入手することができる,ということです。こんなことがあってもいいのだろうか,とわたしはじっと腕を組んで考えてしまいます。
便利であることはいうまでもありません。しかし,この便利さが,なにか人間が生きていく上でとてつもなく重要なものを,どこかに置き忘れてきてはいないだろうか,と。この空恐ろしき機械仕掛けに支配されている人間とはいったいなになのか,と。
つとにバタイユが危惧したように,人間はみずからの動物性からどんどん逸脱してしまい,いつのまにやら「事物」(ショーズ)と化し,ついには,みずからが生み出した機械によって制御されてしまうという,まったく違う意味での,新しいタイプの「事物」になりはててしまっている,という次第です。この現実と向き合うことになって,わたしはなすすべを失っています。と,同時に,ひょっとしたら,ここを突き抜けていくことによって,避けがたい破局のさきの展望がえられるのかもしれない,とも考えています。
個人情報がこんなにとりざたされている一方で,住所さえわかれば,その家屋敷の実像がリアルにディスプレイの上で再現できてしまうという現実があります。だからこそ,住所を伏せておかなくてはならないという事態も必然なのかもしれません。わたしは,自分の住所を書き込んで検索してみて,建物はおろか,窓やヴェランダの状態まで写し出されてくる事実を前にして,絶句しています。いったい,世の中,どうなっていくのでしょうか。
この問題,また,いつか,取り上げて考えてみたいとおもっています。で,今日のところはこのあたりで。
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