2013年8月18日日曜日

アニメーション映画『河童のクゥと夏休み』をみる。驚くべき名作。感動。

 アニメーション映画といえば,ディズニー作品か宮崎駿作品しか知らないわたしは,いってしまえばアニメ・オンチ。こども向け漫画が動くだけの,要するにこども騙しの「動画」だという程度の認識しかありませんでした。だから,動画のタイトルに「河童」という文字があったので,「へーぇ,河童を主人公にしたアニメがあるんだ」「河童をアニメで描くとしたら,どんな風になるんだろう」とおもい,ただ,それだけの理由でみることにしました。

 しかし,開けてびっくり玉手箱。はじめのうちこそ,ほう,なかなかやるではないか,と余裕。つまり,上から目線の鑑賞。ところが・・・です。導入からいろいろのところに心憎いほどの仕掛けがしてあって,それらがまるでパンチをくらうときのように徐々に効いてきます。おやおや,河童を主人公にした単純な子ども向け娯楽動画ではないぞ,と気づきはじめたときはもう手遅れです。もう,全身全霊で画面を見入って没入しています。

 このアニメの主題は言ってしまえば,河童の眼をとおしてみた現代文明批判です。しかも,子どものこころのなかにも,いともかんたんに入り込んできます,そして,いま(現代)を生きるわたしたちの生きざまがどれほど奇怪しいか,それがもののみごとに浮き彫りにされてきます。しかも,そのわかりやすさが素晴らしい。

 このアニメは江戸時代にはじまります。悪代官がその土地(いまの東久留米市が舞台)の悪徳商人と手を結んで,沼を埋め立ててひともうけしようと企みます。それを知った河童が,沼を埋め立てられてしまったら生きてはいけない,と沼の近くを通りかかった悪代官に直訴します。すると,なぜ,そんな話を知っているのかと不信におもった悪代官は,生かしておいてはこの秘密がばれてしまうと考え,切り殺してしまいます。そのときに,まずは,河童の右腕が切り落とされます。ここで,「河童の右腕」が強烈に印象に残ることになります。この右腕がのちの話の展開に重要な役割をはたすことになります。この一部始終をみていた子どもの河童は,以後,人間を信じなくなります。

 そこから一気に時代がくだり,現代に飛んでしまいます。化石になっていた子どもの河童が,偶然,黒目川の河原でコウイチ少年に発見されます。明日から夏休みという学校帰りのできごとでした。この化石を家に持ち帰って水に浸けてみたら,この河童が生き返り,ことばを話すことにびっくり。それも江戸時代のことばを。そして,なにかとすぐに「クゥ,クゥ」と泣くので,名前を「クゥ」とつけます。以後,このコウイチ少年とクゥの物語が展開していきます。

 家で河童を飼っていることは極秘にされるのですが,どこからか漏れてしまい,半信半疑のまま大騒ぎとなります。まだ,だれも実物の河童をみたことがないのに,それがさも実在するかのように周囲に噂として広まってしまいます。そのことに起因する人間関係の破綻がつぎつぎにおこります。コウイチ少年はクラスの人気者のひとりでしたが,夏休み中のプールの日に出校しても,河童の噂が原因で,クラスのなかでひとりだけ浮いてしまいます。だれも相手にしてくれません。

 この噂をマスコミが聞きつけて,コウイチ少年の家の周囲に大勢のマスコミ関係者が張り込みをはじめます。ここからは,まさに現代の世相をそのまま映し出す,みごとな演出になっていて,身につまされます。このさきが,このアニメのみどころです。もう,勘のいい人には物語の展開の方向がある程度はおわかりかとおもいます。ので,省略。

 現代科学文明が,いかに自然を破壊し,人間の自然性を疎外し,たんなる「モノ」的存在になりはててしまっていくさまを,河童の眼を軸にして描いていきます。それはみごととしか言いようがありません。そして,ここがこのアニメのみどころだろうとおもいます。しかも,話は意外な展開をみせ,ああ,そこにゆきついたか,とこれまた納得し,感動です。ここは内緒にしておきましょう。

 面白いことに,「河童のキュウリ好き」とか,「河童の相撲好き」とか,「河童の屁泳ぎ」とか,「河童は嘘をつかない」とか,これまで言い古されてきた伝承をもののみごとに動画のなかにとりこんでいます。そして,それらの取り入れ方がこのアニメーションをより効果的に生き生きとさせています。このあたりの,この監督の手練手管も大したものだ,とおもいました。

 河童が河童として生きる道を,悩み苦しみながら模索することをとおして,逆に,人間であるわたしたちが,ほんとうの意味で「生きる」とはどういうことなのか,という本質的な問題を提起してきます。とても奥の深いアニメです。

 アニメといえば,もともとの意味はアニメーション。すなわち,アニメーション(animation)。つまり,静止画である漫画に「魂」(アニマ:anima/ラテン語)を注入して,生命の宿る肉体として動きはじめることを意味します。だから,アニメにはアニマが籠められているというわけです。この話は,4月から聴講しているN教授のお話のなかで聞かせてもらいました。

 そのときに連想したことは,聖書では人間は土を固めて人形(ヒトガタ)をつくり,そこに神様が息を吹き込んで魂を宿らせたことによって誕生した,というお話です。つまり,わたしたち自身がアニメーションそのものだったというわけです。

 そのつぎに連想したことは,ピノキオの話。これもまったく同じですね。つまり,ピノキオは単なる木製のおもちゃでしかありません。が,なんとかして人形から人間になりたいと強く願望します。あるとき,それが叶えられて人間と同じように魂をいただき,人間と同じように動くことがてきるようになります。つまり,モノから人間への回帰です。

 このアニメーション映画『河童のクゥと夏休み』は,こうした人間の原点回帰への警告ともなっています。現代科学文明の恩恵にどっぷりと浸かって生きている間に,人間本来の「生きる」姿を忘れ去っているという事実を,河童をとおして再認識させられる,という次第です。

 もっと言ってしまえば,河童の生き方にこそ「生の源泉」に触れる重要な要素がいっぱいあるのではないか,という問題提起の作品になっています。ですから,その「生の源泉」に触れる,生きる喜びをとりもどすことこそが,いまのわたしたちに求められているのでは・・・・とこの監督は呼び掛けているようにおもいました。

 いまになってみれば,こんな素晴らしい映画があったことを知らなかったわたしを恥じています。もっとアンテナを高く張って,これからも見逃さないように注意したいとおもいます。

 なお,この作品はDVDにもなっていますので,購入することができます。
 この映画をみてから,あわてて,ウィキペディアでこの作品のことを詳しく知りました。それらの情報については,いまはもう,どうでもいいとおもっています。

 あまり,余分な先入観なしに,今回のわたしのようになにも知らないでみた方が収穫は大きいのではないかとおもいます。

 というわけで,アニメーション映画『河童のクゥと夏休み』は素晴らしい作品です,というご紹介まで。

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