2013年8月6日火曜日

「ホーイ,コウゲツへ行ってくるでのん」。小学校4年生の夏休みの仕事=寺の境内の掃除と川遊び。

 久し振りの夏の日差しを浴びたら,古いからだの記憶が蘇ってきて,一気に,子どものころの夏休みをリアルに思い出してしまいました。からだに刻まれた記憶というものは,いつまでも古びることなく鮮明に思い出すものです。

 門前の小僧であったわたしは,夏休みに入ると午前中は寺の境内の大掃除。お墓の草取りから本堂の縁の下の掃除,周囲を囲んでいる生け垣の刈り込み(細葉垣根)や仏具磨き(真鍮でできた仏具を年に一回,磨き砂でごしごしこすってピカピカにします),本堂の畳を干して叩く,畳の下の新聞紙の取り替え,障子の張り替え(古くなった紙をはがして,洗って,乾かして,新しい紙を張る),便所の掃除,などやることはいっぱいありました。家族全員が総出で頑張ってもなかなかはかどりません。が,とにかく午前中の涼しいうちに,これらの仕事をこなし,お盆の法事(盂蘭盆会・うらぼんえ)までにきれいにしなければなりません。

 午後は本堂で昼寝。これがとても涼しくて気持ちがいい。食後にはみんな横になって休みます。ちょっとうとうととしたころに,友達が呼びにきます。あらかじめ用意してあったフンドシ(六尺褌)をもって,そうっと本堂の外にでてから,両親に向かって「ホーイ,コウゲツへ行ってくるでのん」と声をかけて,いそいそと川遊びにでかけます。これが小学校4年生の夏休みの愉悦のときでした。なぜなら,小学校3年生までは泳げなかったので,必ず,だれか大人か,上級生の信頼の篤い人と一緒でなくては許されませんでした。が,小学生3年生の夏休みの終わりころには,完全に泳ぎを会得したことが認められ,自分たちだけで川遊びにでかけることが解禁されたというわけです。

 わたしが育った豊橋市大村町は,豊川(とよがわ)という水量の豊富な川が,ほぼ半円を描くように蛇行して取り囲んでいました。川遊びの場所はどこでもよかったのですが,大きな砂浜(三角州)のあるところが人気で,ほぼ二カ所に限定されていました。ひとつは渡船場(橋がないので船で向こう岸に渡るための渡船が,いまもあるそうです)。ここは人が大勢きていてにぎやかなところでした。親子づれが多かった。もうひとつの場所が「コウゲツ」。ここは子どもたちだけの秘密の遊び場。各学年ごとに集団をつくって遊んでいました。が,上級生は,それとなく下級生の遊びを監視していました。そして,危ない遊びをはじめると,かならずやってきてきびしく叱られました。やっていいこととやってはいけないことの区別を,かなりきびしく教え込まれました。中学生になると,もはや,川遊びにこなくなります。したがって,6年生が見張り番の役割をしていました。こうして,順番に,川遊びのルールやマナーを伝承していたようにおもいます。

 川遊びでの最高の栄誉は,大きな石を抱えて,一息で川底を歩いて向こう岸にたどりつく技量でした。そのつぎが泳力。川の真中あたりの急流を上流に向かって泳ぎつづけること。流されないで,最後まで残ったものが勝ち。つぎが,急流を横切って,まっすぐに対岸にたどりつくこと(途中で流されて斜めに対岸につくと笑われる)。つかれると,冷やしておいたスイカを割って食べます。それぞれ順番に自分の家の畑からスイカをとってきて石で囲った水に冷やしておきます。そのあとは,砂浜で甲羅干し。このときに,ジリジリと太陽に焼かれる快感をからだで覚えます。そうして,黒くするのも栄誉のうちです。ですから,夏休みには2回から3回は,全身の皮膚が焼けて剥けてしまいます。夏休み明けにはみんな真っ黒な顔で学校にやってきました。ここでも一番黒いのが栄誉。2回剥けたあとの3回目の皮膚は黒光りしていました。それはそれはみごとなものでした。自分より黒いのがいるとくやしくて仕方がなっかたことを思い出します。

 さて,川遊びをした場所の名前の「コウゲツ」は漢字で書くと「向月」だということを,じつは,このブログを書いている途中で調べて初めて知りました。グーグルの地図はまことに便利で,いつも新しい発見の連続です。なぜ,こんな名前がついているのか,これも不思議。それよりも驚いたのは,わたしたちが子どものころに遊んだ砂浜(三角州)が見当たりません。航空写真をどんどん拡大していくと,痩せ細った砂浜がほんの少しだけもうしわけ程度にしかありません。しかも,大きく蛇行していたはずの川がほとんど直線に近くなっています。水の流れが変わってしまい,砂浜も流されてしまったのかもしれません。それは,もう一つの渡船場も同じでした。あるいは,建築ラッシュの時代に砂はせっせと運ばれてしまったのかもしれません。

 しかも,集落の様子も大きく様変わりしています。わたしの子どものころには人の住むところではなかった低地に,いまは家がいっぱい建っています。豊川放水路ができてから,たぶん,この地域の名物であった「大水」もでなくなったのでしょう。でも,上流で大雨でも降って,堤防が決壊したら,間違いなく水没してしまうところです。むかしのことを知らない人たちは,なんの恐怖も覚えないのでしょう。しかし,自然災害は忘れたころにやってきます。何百年に一回といわれる大地震と同じで,いつかはかならず大雨が降ります。そのときにはどうなることか,とわたしは心配です。

 豊川はむかしから暴れ川として知られています。川の流れも,何回も変化した,と古い記録をみると書いてあります。いまの川の流れも,あるところで鋭角に曲がっています。これはどうみても不自然です。ある,なんらかの特別の意図があって,川の流れを人工の手を加えて変えたのではないか,とおもわれます。こんど,いつか,その場に立って,この眼で確かめてみたいとおもうほどです。そのことと,後世になって松原用水を引く大事業と,大村町に鎮座するハ所神社(この名前からして不思議)の由来は関係しているようです。

 このところ,なにかと子ども時代のことを思い出すと同時に,わたしの育った大村町とはいったいどういう歴史を刻んだ集落だったのだろうか,と考えることが多くなってきました。ものの見方,考え方も大きく変化していることに気づきます。これもまた不思議な体験ではありますが・・・。でも,とても面白いので飽きることはありません。その意味でも,グーグルの地図検索は,老後の道楽にはもってこいのツールだと,いささかあきれ果てながらも,楽しんでいます。

 この「コウゲツ」という地名にも,なにか大きな謎が隠されているのかもしれません。そのとなりには眼鏡とか褌とか,わけのわからない地名が並んでいます。しかも,これらはすべて河川敷(これがとてつもなく広い)で,ここにはいまも家は建っていません。首吊りの名所だった深い森もあります。かつて,その森のなかに入っていくには勇気が必要でした。生まれて初めて首吊り現場に立ったときには,血が逆流しました。小学校5年生のときでした。

 またまた,とんでもない記憶が蘇ってきます。際限がありません。今日のところはここまで。

1 件のコメント:

柴田晴廣 さんのコメント...

 今年の東三河は、例年になく雨量が少なく、宇連ダム、大島ダムとも大分底を付いてきたようで、先週から節水が始まっています。
 大村からだと、牛川の渡しのあたりに泳ぎにいったんですね。母は行明(ぎょうめい)に行ったといってましたから、大村も行明かと思っていました。
 本堂での昼寝、風通しが良かったことと思います。
 お祭りの若い衆をやっていたころですから、随分と昔になりますが、夏の土用は、お宮で、お祭りの道具を虫干ししました。
 道具を出して干してしまえば、あとはなくならないように監視をしているだけですから、拝殿の板の間でゴロリと。これが気持ちがいいんですよね。でそうこうしているうちに、年番の町内(牛久保は四町あり、輪番でその年の祭事を取り仕切る町内を年番という)が、生ビールを買ってきて、乾杯。これがまた旨い。
 本堂での昼寝の話を読み、こんなことを思い出しました。