セルジュ・ラトゥーシュについては,すでに,『経済成長なき社会発展は可能か?』(作品社,2010年)が日本で翻訳され,大きな話題になりましたので,ご存知の方も多いこととおもいます。最近では,ことしの5月に『<脱成長>は,世界を変えられるか?──贈与・幸福・自律の新たな社会へ』(作品社)が刊行されて,ふたたび大きな話題になっています。
そのセルジュ・ラトゥーシュが,雑誌『世界』9月号に「豊かな社会」の欺瞞から「簡素な豊さ」という逆説へ,というショート・エッセーを寄せ,それを西谷修が翻訳し,その上で,インタビューを試みています。わたしにとっては,西谷修によるこなれた翻訳のわかりやすさにつづき,インタピューがセルジュ・ラトゥーシュの思考のど真ん中にピン・ポイントのように鋭く突き刺さっていて,とても助かりました。というのも,わたし自身は翻訳本に手こずっていただけに,西谷修のこなれた訳文がすんなりとわたしの理解を誘ってくれただけではなく,インタピューによって,さらに,そのポイントをみごとに明るみに出してくれたからです。なるほど,そういうことだったのか,と。
これを読んで勇気づけられましたので,これから,再度,セルジュ・ラトゥーシュの翻訳本に挑戦してみようとおもっています。と同時に,何年も前(1994年)にわたしが提唱した「コンビビアル・スポーツ」の考え方が,基本的には間違いではなかったことがわかり,勇気百倍というところです。これもまた大きな収穫でした。
それはどういうことかと言いますと,ヨーロッパ近代が生み出した近代競技スポーツの時代はすでにその使命を終え,いまや,それに代わって「コンビビアル・スポーツ」(=共生スポーツ)に移行していくべきときではないか,ということを主張したものです。この論文は,いろいろのいきさつがあって,中国で翻訳紹介され,かなりの話題になったと聞いています。しかし,日本ではほとんど省みられることもなく,消し去られてしまいました。当時の研究者仲間からも,あまり,受けはよくなかったようです。とりわけ,近代競技スポーツが「上昇志向のスポーツ」であるのに対して,それに代わるべき後近代のスポーツは「下降志向のスポーツ」をめざすべきだ,という表現がうまく受け入れてもらえなかったようです。
わたしとしては,当時も,そして,いまも,まことに時宜をえた表現であると信じています。ですから,この表現にはこだわらないで,別の言い方をしながら,コンセプトをより明確にする努力をつづけてきました。
たとえば,ヨーロッパ近代が生み出した近代競技スポーツの世界各地への普及は,まさに,ヨーロッパ産のスポーツ文化による世界制覇であり,それはヨーロッパの近代合理主義の考え方による世界の植民地化運動そのものであった,と。すなわち,自由競争の無条件の容認,優勝劣敗主義の奨励,ルールの絶対化,キリスト教精神に支えられたスポーツマンシップの推進,マナーの厳守,など。別の言い方をすれば,これはヨーロピアン・スタンダードの世界への「押し売り」にも等しい,と。さらには,資本主義の精神に支えられた「経済帝国主義」が,スポーツにおける優勝劣敗主義と表裏一体となり,スポーツの「金融化」への道を余儀なくしている,といった具合です。
こんなことを考えていましたので,セルジュ・ラトゥーシュが「コンヴィヴィアリテ」という概念をもちだして,「脱成長」を語るくだりが,わたしには強烈なインパクトがありました。ならば,再度,この「コンヴィヴィアリテ」の概念を,スポーツ史・スポーツ文化論の立場から練り直して,近代競技スポーツを超克するためのひとつの重要なコンセプトとして定置し,「21世紀スポーツ文化」(すなわち,後近代のスポーツ文化)の展望を描いてみたいとおもっています。
現代のスポーツが,経済原則に絡め捕られて,すでに久しいことは衆知のとおりです。わたしたちもまた,スポーツの小さな領域に閉じこもって蛸壷型の批評を繰り出したとしても,それはいまやほとんどなんの意味ももたなくなってしまったことを強く自覚しなくてはなりません。そして,「経済の帝国主義」から抜け出し,新たなる展望に立つスポーツ文化論を打ち出していかなくてはならない,と強くおもいました。
そのためには,セルジュ・ラトゥーシュのテクスト『<脱成長>は世界を変えられるか?』に付されたサブ・タイトル「贈与・幸福・自律の新たな社会へ」に籠められたキー・ワードが,そっくりそのままこれからのスポーツ文化論のキー・コンセプトとして,きわめて有効だと考えています。
また,ひとつ,広い知の地平に飛び出すことができそうな予感があって,この『世界』9月号の特集に感謝したいとおもいます。
そのセルジュ・ラトゥーシュが,雑誌『世界』9月号に「豊かな社会」の欺瞞から「簡素な豊さ」という逆説へ,というショート・エッセーを寄せ,それを西谷修が翻訳し,その上で,インタビューを試みています。わたしにとっては,西谷修によるこなれた翻訳のわかりやすさにつづき,インタピューがセルジュ・ラトゥーシュの思考のど真ん中にピン・ポイントのように鋭く突き刺さっていて,とても助かりました。というのも,わたし自身は翻訳本に手こずっていただけに,西谷修のこなれた訳文がすんなりとわたしの理解を誘ってくれただけではなく,インタピューによって,さらに,そのポイントをみごとに明るみに出してくれたからです。なるほど,そういうことだったのか,と。
これを読んで勇気づけられましたので,これから,再度,セルジュ・ラトゥーシュの翻訳本に挑戦してみようとおもっています。と同時に,何年も前(1994年)にわたしが提唱した「コンビビアル・スポーツ」の考え方が,基本的には間違いではなかったことがわかり,勇気百倍というところです。これもまた大きな収穫でした。
それはどういうことかと言いますと,ヨーロッパ近代が生み出した近代競技スポーツの時代はすでにその使命を終え,いまや,それに代わって「コンビビアル・スポーツ」(=共生スポーツ)に移行していくべきときではないか,ということを主張したものです。この論文は,いろいろのいきさつがあって,中国で翻訳紹介され,かなりの話題になったと聞いています。しかし,日本ではほとんど省みられることもなく,消し去られてしまいました。当時の研究者仲間からも,あまり,受けはよくなかったようです。とりわけ,近代競技スポーツが「上昇志向のスポーツ」であるのに対して,それに代わるべき後近代のスポーツは「下降志向のスポーツ」をめざすべきだ,という表現がうまく受け入れてもらえなかったようです。
わたしとしては,当時も,そして,いまも,まことに時宜をえた表現であると信じています。ですから,この表現にはこだわらないで,別の言い方をしながら,コンセプトをより明確にする努力をつづけてきました。
たとえば,ヨーロッパ近代が生み出した近代競技スポーツの世界各地への普及は,まさに,ヨーロッパ産のスポーツ文化による世界制覇であり,それはヨーロッパの近代合理主義の考え方による世界の植民地化運動そのものであった,と。すなわち,自由競争の無条件の容認,優勝劣敗主義の奨励,ルールの絶対化,キリスト教精神に支えられたスポーツマンシップの推進,マナーの厳守,など。別の言い方をすれば,これはヨーロピアン・スタンダードの世界への「押し売り」にも等しい,と。さらには,資本主義の精神に支えられた「経済帝国主義」が,スポーツにおける優勝劣敗主義と表裏一体となり,スポーツの「金融化」への道を余儀なくしている,といった具合です。
こんなことを考えていましたので,セルジュ・ラトゥーシュが「コンヴィヴィアリテ」という概念をもちだして,「脱成長」を語るくだりが,わたしには強烈なインパクトがありました。ならば,再度,この「コンヴィヴィアリテ」の概念を,スポーツ史・スポーツ文化論の立場から練り直して,近代競技スポーツを超克するためのひとつの重要なコンセプトとして定置し,「21世紀スポーツ文化」(すなわち,後近代のスポーツ文化)の展望を描いてみたいとおもっています。
現代のスポーツが,経済原則に絡め捕られて,すでに久しいことは衆知のとおりです。わたしたちもまた,スポーツの小さな領域に閉じこもって蛸壷型の批評を繰り出したとしても,それはいまやほとんどなんの意味ももたなくなってしまったことを強く自覚しなくてはなりません。そして,「経済の帝国主義」から抜け出し,新たなる展望に立つスポーツ文化論を打ち出していかなくてはならない,と強くおもいました。
そのためには,セルジュ・ラトゥーシュのテクスト『<脱成長>は世界を変えられるか?』に付されたサブ・タイトル「贈与・幸福・自律の新たな社会へ」に籠められたキー・ワードが,そっくりそのままこれからのスポーツ文化論のキー・コンセプトとして,きわめて有効だと考えています。
また,ひとつ,広い知の地平に飛び出すことができそうな予感があって,この『世界』9月号の特集に感謝したいとおもいます。
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