2013年8月13日火曜日

鳥見山(とみやま)に鎮座する等彌(とみ)神社(奈良県桜井市)の不思議。(出雲幻視考・その8.)

 村井康彦さんの名著『出雲と大和』(岩波新書)を片手に,鳥見長髄彦(とみのながすねひこ)の事跡をたどるフィールド・ワークに行ってきました。その第二日目(8月9日)に等彌(とみ)神社の境内に足を踏み入れました。それも,偶然のできごとでした。なぜなら,この等彌神社のことは村井さんの著書にはひとことも触れられてはいませんでしたので,わたしの視野のなかに入ってはいませんでした。しかも,これまで聞いたこともありません。

 では,どうして等彌神社にたどりついたのか。村井さんの著作には「外山(とび)」という地名の謎解きにも似た描写がでてきます。それによりますと,この外山(とび)を鳥見(とみ)の当て字(別字)とみるか,それとも八咫烏のトビの当て字と読むか,二通りの解釈が成り立つ,とあります。そして,村井さんは鳥見の「とみ」説を支持します。で,まずは,わたしもその地に立ってこの眼で確かめてみようということででかけました。地図でみるとかなり広い地域が「外山」と呼ばれていることがわかります。そういう名前のバス停もありました。

 が,それ以上の情報をえる手掛かりがありません。ならば,すぐ近くに桜井市図書館があるから,そこで『桜井市史』などを繙けば,なにか新たな手掛かりがえられるかもしれない,ということでそこに向かいました。が,運悪くというか,運良くというか,微妙なところですが,休館日(書庫の入れ換え作業のための臨時の休館日)でした。

 がっかりして,しばらくこの周辺の景色を眺めていました。すると,道路表示に「等彌神社」という文字が眼に飛び込んできました。ふーうん,不思議な名前の神社があるんだなぁ,とぼんやり眺めていました。なぜなら,このままではなんと読むのかわかりません。読めないのです。すると,その下にちいさくローマ字で「Tomijinjya」と書いてありました。えっ!「とみ」神社だって?なんということか,とわたしは跳び上がってしまいました。外山(とび)=鳥見(とみ)という村井さんの解釈に同意しているわたしとしては,この「等彌(とみ)」はとんでもない「幻視」をするための有力な手掛かりではないか,と一瞬にして確信しました。

 入り口こそ,どこにでもある神社でしたが,予想外に長い参道を歩きはじめたときから,この神社はただものではないと予感していました。なぜなら,連日の猛暑で,この日もすでに昼過ぎでしたので、38℃は間違いなく超えていたのではないかとおもわれるほどの暑さです。にもかかわらず,参道を歩いていくとなんとも涼しげな風が吹いてきます。木が鬱蒼と繁っていることもあるのでしょうが,山から吹き下りてくる風が,なんとも心地よいのです。ここは気の流れが違う,風水的に最高の立地条件にある場所だと確信しました。

 等彌神社の境内はとても広く,参道の両側にはさまざまな神社が点在しています。たとえば,猿田彦大神社,金比羅社,愛宕社,恵比寿社,下津尾社(右殿は八幡社・祭神は神武天皇,左殿は春日社・祭神はアメノコヤネ),上津尾社(祭神はオオヒルメムチミコト),以下省略,という具合です。そして,上津尾社は,もともとは鳥見山の山中にあり,天永3年(1112年)に現在地に遷された,ということです(神社発行のパンフレットによる)。

 このパンフレットにはつぎのような文章があって,わたしの眼を釘付けにしました。
 「聖地鳥見山は,桜井駅の南東に位置しております。標高245メートルのなだらかな山容を誇るこの聖地は,橿原宮で即位されました初代天皇である神武天皇が,霊〇(田編に寺=まつりのにわ)を設けられました。霊〇(まつりのにわ)は国で採れた新穀及び産物を供えられ,天皇御自ら皇祖天津神々を祭られ,大和平定と建国の大孝を申べ給うた大嘗会の初の舞台です。いわば,我が国建国の聖地と言えるでしょう。」

 その他の文章も併せて熟読してみますと,この神社は神武天皇を祀った神社である,と宣言していることがわかります。しかし,その文章は,さきの引用でもお分かりのように,とても捩じれていて複雑怪奇です。しかし,最終的には神武天皇を全面に押し出した神社であることは間違いありません。が,このねじれ具合に,わたしは大いなる疑問をいだくと同時に納得もしてしまいます。なにゆえに,こんなにもってまわった言い回しをしなくてはならないのか,もっと,単刀直入に,わかりやすく神武天皇の神社であると言い切ればいいのに・・・・。しかし,それができないところに大きな謎が隠されているのではないか,とわたしは「幻視」してみました。

 その謎を解く手掛かりのひとつは,「鳥見山の山中にあった神社を1112年に,現在の場所に遷した」という記述です。神武天皇が大和朝廷を開いてから,ずいぶん長い年月を経ていることか(精確には計算できない)と考えてみれば,容易にその間の事情が推測できます。かんたんに言ってしまえば,それまでは山中にあった社を現在地に遷すことができなかった,ということです。なぜ?そんなに長い間,大和朝廷の支配下に治めることができなかった聖地だったのか,とわたしは推測します。

 ここからは,わたしの独断と偏見に満ちた「幻視」です。しかし,お断りしておきますが,わたしにとっては真実そのものです。

 さて,どこからお話しましょうか。
 まずは,鳥見山。この山を「とみやま」と読ませることの根拠はなにか。この鳥見山は,こんにちの地図で確認してみますと,なんと「外山(とび)」地区に位置しています。ちなみに,等彌神社の位置は桜井です。等彌神社の裏側から山を登っていき,大きく左折したさきの尾根の頂上が鳥見山です。この鳥見山のロケーションを地図でよく確認してみますと,この頂上(つまり,「まつりのにわ」(霊〇)のある場所は「外山」に属しています。ということは,「まつりのにわ」をむかしから管理していた人たちは「外山」の住民だったのではないか,とわたしは幻視します。

 さらに,鳥見山という名前から連想することは,一直線に,鳥見長髄彦の名前です。しかも,ここが鳥見長髄彦軍と神武軍が二回目に対戦した激戦地でした。ここでも鳥見長髄彦軍は神武軍を追い返しています。言ってしまえば,この地を神武軍はなんとしても突破して大和平野に突入したかったのです。しかし,それはなりませんでした。それほどに,この地は鳥見長髄彦の側からすれば絶対に譲れない軍事的な拠点でした。

 なぜなら,鳥見山の頂上からは,360度,あらゆる方向を見渡すことのできる軍事上の絶好の場所だったからです。初瀬川をはさんで対岸の向こうには三輪山が聳え,初瀬川の上流や大宇陀から大和平野に入る交通の要所であると同時に,軍事上の要塞でもあります。ここを支配していた豪族が鳥見長髄彦であったことは,ほとんど間違いありません。

 ついでに言っておけば,鳥見山という名前からして,神武東征以前からの名前であったことは明らかです。この鳥見山と三輪山が初瀬川の上流からやってくる武力に対して,いかに重要な要塞であったかは,素人が考えてみても明らかです。ここを見逃すことなく鳥見長髄彦が,しっかりと支配していたことは明々白々です。

 繰り返しになりますが,富雄川沿いにある下鳥見の「登弥神社」も,表向きは神武天皇が大和を平定した折に作られた社だと名乗りつつ,祀ってある祭神は,すべて出雲系の神々です。その代わり,いまはさびれた小さな社にすぎません。しかし,その参道の長さといい,そのロケーションから醸しだされる雰囲気といい,とてもシックな落ち着いた神社です。それに比べると,桜井の等彌神社は,同じ「とみ」神社でありながらも,1112年の遷宮を経て,完全に神武系の神社に鞍替えし,出雲の神々は,わずかに「恵比寿社」が残るのみです。それでもなお,そのねじれ現象はいまも厳然と残存しており,わたしにはとてもわかりやすい構造になっています。

 しかし,それにしても,村井康彦さんは「外山(とび)」の名前の出自の確認までしていながら,なにゆえに,この等彌神社のことについてはひとことも触れなかったのでしょうか。のみならず,このあたりに神武の軍勢が多く滞在したことの根拠として「磐余(いわれ)」という地名が残っていることまで指摘していながら,この等彌神社を忌避しているかのように読み取れてしまうのは,なぜか,わたしには大いなる疑問です。

 もうひとこと。村井康彦さんは,桜井市出雲という集落があることにもひとことも触れていません。そして,当然のことながら,いまも出雲の人たちの聖地である「ダンノダイラ」についても,ひとことも触れてはいません。知らないはずはないのに・・・,なぜか。ついでに連想することは,出雲の「ダンノダイラ」と外山(とび)の「マツリノニワ」はどこかで通底しているようにおもうことです。ということは,外山(とび)も出雲系の人びと,つまり,「トミ」の系譜の一族。このさきのことは,このあたりで止めにしておきます。

 どうも,いまも,アンタッチャブルな世界がある,と考えざるをえないようです。古代史の謎解きはかくも面白いのに,核心部分になると,きちんと活字にして残す人がほとんどいません。わたしもあまり深入りしない方が無難かもしれません。が,わたしの書くものはあくまでも「幻視」ですので,くれぐれもお間違いのないように。

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