フランス革命によってフランス人は「根こぎ」にされてしまった,とシモーヌ・ヴェイユは嘆いています。「根こぎ」にされてしまったとは,つまり,大地に根をはった生き方ができなくなってしまった,ということを意味します。つまり,根なし草になってしまったということです。ですから,強い風が吹けば,なんの抵抗をすることもなく,ただ流されていくだけの生き方しかできなくなってしまった,というわけです。
フランス革命によって誕生した近代国民国家を生きる「根なし草」となりはててしまった国民は,外敵に対して国を守る気概もなくなってしまった,とヴェイユは嘆きます。その結果,フランス国民はナチス・ドイツに徹底抗戦する力もなく,いとも簡単に国を明け渡してしまった,と。だから,なんの大義名分もないまま,土足で乗り込んできたナチス・ドイツに,フランス人としての意地をみせることもなく,なすすべもなく支配されてしまった,と。
彼女自身は,1936年に勃発したスペイン内乱のおりには,人民戦線政府を支持して率先して国際義勇軍の一兵士として参加しています。しかし,痩せぎすの弱々しいインテリ女性は,戦争の前線に立たせてもらうことができず,大いに悔しがります。そして,戦線の裏方として,彼女なりの全力で奉仕します。そして,わが身を犠牲にしてでも戦うことが,いま困っているスペイン人民を救うためのわたしの「義務」だと主張しています。
そして,驚くべきことに,彼女は『根をもつこと』という著作の冒頭に「義務は権利に先立つ」と書いています。一瞬,わたしはわが眼を疑いました。なんということを・・・・,と。しかも,彼女は,権利は,義務をはたした人間に与えられるものであり,義務をはたした人間が,その恩恵を受けた側から承認されることによって,はじめて発生し,成立するものだ,と主張しています。
しかも,この義務は「魂の欲求」に支えられているものであり,そのためにはみずからを「犠牲」にすることも辞さない,といいます。「魂の欲求」とは,たとえば,目の前に食べるものがなくて飢えて困っている人がいたら,自分のもっている食べものを無条件に差し出すことだ,といいます。この「魂の欲求」にしたがうことが,人間が生きていく上で,ほかのなによりも優先されねばならない「義務」だ,と彼女は主張します。そして,彼女自身は,みずからの信ずる道を最優先させて,まっすぐに歩みます。
しかし,いろいろの事情で,アメリカを経由してイギリスに亡命したわが身の振り方をひどく悔やみ,フランスに残って抵抗運動をつづけている同志の苦労をこころから慮り,食を絶つようにして文筆活動に精力をそそぎ,ついには餓死してしまいます。その遺書ともいうべき著書が『根をもつこと』という次第です。
わたし自身はシモーヌ・ヴェイユの全著作を丹念に読み込んだわけではありませんが,それでも彼女の生き方,そして,残された著作に大きな影響を受けずにはいられません。なぜなら,彼女の生き方そのものが,「犠牲」そのものであり,ことばの正しい意味での「供犠」であり,それはまさにマルセル・モースがいうところの「贈与」そのものではないか,とストレートに感じてしまうからです。ですから,シモーヌ・ヴェイユの思想の根底にはキリスト教的な「犠牲」の精神が色濃くやどっていますが,それでもなお,わたしのような仏教徒にも強烈に訴えかけるものがあります。
それはいったいなんなのだろうか,とわたしは深く考えてしまいます。そうして,朧げながら浮かび上がってくるものは,人間として生きる上での,もっとも根源的な「生の源泉」に触れるものをシモーヌ・ヴェイユの生き方や著作をとおして感じ取ることができるからではないか,とわたしは考えています。つまり,それがヴェイユのいうところの「魂の欲求」ということなのでしょう。
ここまでくれば,あとは「スポーツ批評」との接点を見いだすのみです。スポーツは,はたしてシモーヌ・ヴェイユのいう「魂の欲求」と,真っ正面から向き合っているでしょうか。あるいは,「魂の欲求」という「根」をしっかりと保持しているでしょうか。スポーツもまた,シモーヌ・ヴェイユ風に言ってしまえば,前近代のスポーツ文化から近代競技スポーツに移行する段階で,もののみごとに「根こぎ」されてしまった,ということになります。別の言い方をすれば,根なし草になってしまったものだけが近代競技スポーツとして世界に普及していくことになります。
わたしたちが,いま,現前しているスポーツ文化は「根こぎ」にされ,「根なし」にされてしまったものばかりです。では,この「根こぎ」にされ,「根なし」にされてしまったスポーツ文化を,もう一度「根づけ」するにはどうすればいいのか,というのがわたしたちのこれからの課題になってきます。すなわち,「魂の欲求」に根づくスポーツ文化はいかにあるべきなのか,と。このことをシモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』はわたしたちに教えてくれます。
いささか飛躍しますが,あらゆるものが経済原則に支配され,つまり,市場原理にさらされ,金融化されていく現代の進みゆきのなかで,わたしたちは身もこころも,あるがままの「魂の欲求」にゆだねていくための生き方の方途を見いださなくてはなりません。21世紀のスポーツ文化もまた,ここに「根づけ」しなくてはなりません。
こんなことを,シモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』は,わたしに強く訴えかけてきます。そして,それに素直に応答したいという「欲求」が,素直にわたしのなかにも芽生えてきます。このことを,わたしとしては大事にしていきたいと考えています。わたしの「スポーツ批評」の「根」のひとつは,間違いなくここにあるといっていいでしょう。
と,まずは,ここまで。
フランス革命によって誕生した近代国民国家を生きる「根なし草」となりはててしまった国民は,外敵に対して国を守る気概もなくなってしまった,とヴェイユは嘆きます。その結果,フランス国民はナチス・ドイツに徹底抗戦する力もなく,いとも簡単に国を明け渡してしまった,と。だから,なんの大義名分もないまま,土足で乗り込んできたナチス・ドイツに,フランス人としての意地をみせることもなく,なすすべもなく支配されてしまった,と。
彼女自身は,1936年に勃発したスペイン内乱のおりには,人民戦線政府を支持して率先して国際義勇軍の一兵士として参加しています。しかし,痩せぎすの弱々しいインテリ女性は,戦争の前線に立たせてもらうことができず,大いに悔しがります。そして,戦線の裏方として,彼女なりの全力で奉仕します。そして,わが身を犠牲にしてでも戦うことが,いま困っているスペイン人民を救うためのわたしの「義務」だと主張しています。
そして,驚くべきことに,彼女は『根をもつこと』という著作の冒頭に「義務は権利に先立つ」と書いています。一瞬,わたしはわが眼を疑いました。なんということを・・・・,と。しかも,彼女は,権利は,義務をはたした人間に与えられるものであり,義務をはたした人間が,その恩恵を受けた側から承認されることによって,はじめて発生し,成立するものだ,と主張しています。
しかも,この義務は「魂の欲求」に支えられているものであり,そのためにはみずからを「犠牲」にすることも辞さない,といいます。「魂の欲求」とは,たとえば,目の前に食べるものがなくて飢えて困っている人がいたら,自分のもっている食べものを無条件に差し出すことだ,といいます。この「魂の欲求」にしたがうことが,人間が生きていく上で,ほかのなによりも優先されねばならない「義務」だ,と彼女は主張します。そして,彼女自身は,みずからの信ずる道を最優先させて,まっすぐに歩みます。
しかし,いろいろの事情で,アメリカを経由してイギリスに亡命したわが身の振り方をひどく悔やみ,フランスに残って抵抗運動をつづけている同志の苦労をこころから慮り,食を絶つようにして文筆活動に精力をそそぎ,ついには餓死してしまいます。その遺書ともいうべき著書が『根をもつこと』という次第です。
わたし自身はシモーヌ・ヴェイユの全著作を丹念に読み込んだわけではありませんが,それでも彼女の生き方,そして,残された著作に大きな影響を受けずにはいられません。なぜなら,彼女の生き方そのものが,「犠牲」そのものであり,ことばの正しい意味での「供犠」であり,それはまさにマルセル・モースがいうところの「贈与」そのものではないか,とストレートに感じてしまうからです。ですから,シモーヌ・ヴェイユの思想の根底にはキリスト教的な「犠牲」の精神が色濃くやどっていますが,それでもなお,わたしのような仏教徒にも強烈に訴えかけるものがあります。
それはいったいなんなのだろうか,とわたしは深く考えてしまいます。そうして,朧げながら浮かび上がってくるものは,人間として生きる上での,もっとも根源的な「生の源泉」に触れるものをシモーヌ・ヴェイユの生き方や著作をとおして感じ取ることができるからではないか,とわたしは考えています。つまり,それがヴェイユのいうところの「魂の欲求」ということなのでしょう。
ここまでくれば,あとは「スポーツ批評」との接点を見いだすのみです。スポーツは,はたしてシモーヌ・ヴェイユのいう「魂の欲求」と,真っ正面から向き合っているでしょうか。あるいは,「魂の欲求」という「根」をしっかりと保持しているでしょうか。スポーツもまた,シモーヌ・ヴェイユ風に言ってしまえば,前近代のスポーツ文化から近代競技スポーツに移行する段階で,もののみごとに「根こぎ」されてしまった,ということになります。別の言い方をすれば,根なし草になってしまったものだけが近代競技スポーツとして世界に普及していくことになります。
わたしたちが,いま,現前しているスポーツ文化は「根こぎ」にされ,「根なし」にされてしまったものばかりです。では,この「根こぎ」にされ,「根なし」にされてしまったスポーツ文化を,もう一度「根づけ」するにはどうすればいいのか,というのがわたしたちのこれからの課題になってきます。すなわち,「魂の欲求」に根づくスポーツ文化はいかにあるべきなのか,と。このことをシモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』はわたしたちに教えてくれます。
いささか飛躍しますが,あらゆるものが経済原則に支配され,つまり,市場原理にさらされ,金融化されていく現代の進みゆきのなかで,わたしたちは身もこころも,あるがままの「魂の欲求」にゆだねていくための生き方の方途を見いださなくてはなりません。21世紀のスポーツ文化もまた,ここに「根づけ」しなくてはなりません。
こんなことを,シモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』は,わたしに強く訴えかけてきます。そして,それに素直に応答したいという「欲求」が,素直にわたしのなかにも芽生えてきます。このことを,わたしとしては大事にしていきたいと考えています。わたしの「スポーツ批評」の「根」のひとつは,間違いなくここにあるといっていいでしょう。
と,まずは,ここまで。
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