「ドグマ人類学」と聞いて驚かない人はいないだろう。いったい「ドグマ」と名のつく「人類学」とはいかなる「学」のこと意味しているのだろうか,と。
だから,『ドグマ人類学総説・西洋のドグマ的諸問題』(ピエール・ルジャンドル著,西谷修監訳,嘉戸一将/佐々木中/橋本一径/森元庸介訳,平凡社,2003年)という分厚い訳書が,ルジャンドルの来日に合わせて刊行され,一躍,大きな話題となったときの世間の驚きもまた大変なものだった。この本が初めて世にでたのは,ルジャンドルが来日したときの第一回目の講演(2003年10月,於・東京外国語大学)に合わせて,できあがったばかりの訳書を平凡社の関口さんが担いで持ち込んだものだった。わたしは幸いなことに,西谷さんから献本していただき,少し早めに手にすることができた。
嬉しくてすぐに読みはじめた。しかし,どこを読んでみても難解で,全然,中に入っていけない。困っていたら,冒頭に「ドグマ人類学への導入──訳者から読者へ」という西谷修さんによる解説があった。いつものように,どんな難解な本も,西谷さんの手にかかると,みごとなまでにわかりやすい本に早変わりする。つまり,わかったような気にさせてくれるのである。そこで,気を取り直してルジャンドルの本文に挑む。しかし,ほどなく跳ね返されて,また,西谷さんの解説を読む。そんなことを何回,くり返したことだろうか。でも,こんなことをくり返しているうちに,これまでに読んできた本とはまったく異なる,きわめて重要な問題提起を含んでいる,ということだけはつたわってくる。
さて,前置きはこの程度にして,では,「ドグマ人類学」と「スポーツ批評」の接点はどこにあるのか,この一点に限定して,西谷さんの解説を先達として,少しだけ踏み込んでみたいと思う。
「端的に言えば,ドグマ人類学は人間が『話す生き物』であるという規定から出発する。だが,人間は生まれたときからことばを話すわけではなく,ことばを話すようにならなければならない。この過程はふつう『ことばの獲得』などと言われるが,実際にはそれは意志的なプロセスではなく,幼児の周囲に飛び交うことばの網に捕捉され,その網目のなかに取り込まれることでいつの間にかことばの主体になるのであり,いわばことばの秩序に身丈を合わせてそこの住人になるようなものである。そのとき注意すべきは,ことばがすでにひとつの秩序であり,規範的なものだということである。ことばそのものが規則をもっているというだけでない。ことばはつねに何かを語っており,ことばの秩序に参入するとは,その語りの通告を身に受け,それを通して主体として造型されるということでもある。それによって初めてひとは通じることばを話す主体となる。」(P.7~8.)
この世に生をうけた赤ん坊が「話す生き物」としての人間になる過程が,すでにして「ドグマ」的なのだというわけです。つまり,「ことばを話す主体」は,ことばによって造型されるものであって,一定の秩序や規範のもとにコントロールされる,そういう存在である,ということである。言ってしまえば,「話す生き物」としての人間の主体そのものがすでにドグマなのである。もっと言ってしまえば,ことばそのものが「ドグマ」なのだから。日本語の「木」は英語では「tree」であり,ドイツ語では「Baum」となるように。つまり,それぞれの言語は,それぞれの秩序や規範にもとづきながらも,もとはといえばドグマ的に「名づけ」を行うことからはじまるのだ。
巻末の用語解説によれば,「ドグマ」(dogme)については以下のように述べられている。
「ルジャンドルの仕事を貫くもっとも基礎的な概念。それはまずもって真理としての強制力をもつ言説の謂だが,同時に「見せかけ」や「臆見」といった意味とも無関係ではない。ごく簡単にいえば,この言葉が意味するのは,ある文化において人間が人間であろうとするかぎり,真理として受け容れなければならない言説やイメージのことである。こうした観点からすれば,真理はそもそも虚偽と不可分であり,そこから,社会的な水準でのフィクションの組立が,主体の制定にとって不可分な要請として浮上してくる。」(P.369.)
ここではじつにコンパクトに「ドグマ」という用語についての解説がなされている。具体的な内容については,本文に展開されている事例を一つひとつ点検していく以外にはない。しかし,ルジャンドルの主張する「ドグマ」の考え方を,一気に飛躍するが,スポーツ(文化)に当てはめて考えていくと,そこには恐るべき新たな知の地平が開けてくることに気づく。たとえば,西洋近代が生み出した「競技スポーツ」は,まさに西洋近代の「ドグマ」的産物でしかない,という事実である。
もう少し踏み込んでおけば,西洋近代が生んだ競技スポーツの「ルール」や「マナー」や「フェア」や「ウェア」や「用具・施設」や「組織」や「制度」や「アマ・プロ」や「トレード」や「トレーニング」や「管理・運営」や「金銭」や「ドーピング」や・・・・書き出したらエンドレス・・・・とうとうも西洋近代が生み出した「ドグマ」的産物でしかない,ということだ。問題は,この西洋近代のドグマ的産物でしかない,つまり,ある特殊なヴァージョンでしかない競技スポーツが,まるで「普遍」の真理であるかのごとく地球上のすみずみにまで浸透しつつある,この現実にある。ここから,伝統スポーツとグローバリズムの問題系が立ち上がってくる。
さらには,スポーツ(文化)ほど「ドグマ」の問題系を考える上で面白い題材はないだろう,という仮説である。つまり,永遠のテーマとされる「スポーツとはなにか」という問いに,西洋近代の論理で応答しようとしても,それは出口のない堂々巡りの議論になってしまう。つまり,同じ穴の狢になってしまうだけだ。そこから抜け出すには,西洋近代が排除・隠蔽してきた「ドグマ」的視座に立つ論考が,ひとつの方法論としてきわめて有効である,ということだ。
つまり,「スポーツとはなにか」を,ドグマ人類学的手法を用いて解き明かしてみるという試みである。そして,そのとき,西洋近代によって排除・隠蔽されてきたスポーツ(文化)の豊穣なバックグラウンドが浮び上がってくるに違いない。そこまで思考の「根」を降ろしたとき,「スポーツとはなにか」という問いに対する驚くべき応答が待っている,とわたしは考える。
ふたたび西谷さんの解説を引いてみよう。
「『ドグマ』とは,ごく簡単に言えば,ことば以前の『生き物』の要請がことばの次元に翻案されるときの非対称的な交換のあり方であり,根拠もなく,それ自身が無根拠の根拠を組み立てて『真』なるものを可能にするような,あらゆる人間的コミュニケーションの根底を支える発端の構造の謂である。その神話的表現をルジャンドルは,神々の使者として人間にことばを伝えた古代のヘルメスの形象に見ている。不分明な始原とことばの世界とを繋ぐもの,それが『ドグマ的表象』であり,それは『他所に運ぶ」という語源的意味での文字どおりの『メタファー』でもあって,あらゆる『真』が可能になるような,そして『理性原理』が演じられるような,根本的な『フィクション』の次元の支えでもある。」(P.10.)
このような文章を熟読玩味していると,いつしか,ジョルジュ・バタイユが<横滑り>ということばで表現した,動物性から人間性への「離脱と移動」(西谷さんの著書の名前を借用)のテーゼと二重写しになって,わたしにはみえてくる。そして,スポーツの「始原」(「起源」ではない)やスポーツの「変容」(「発展」ではない)というスポーツの根源的な問いかけと応答が可能になってくるように思う。
「スポーツ批評」が成立するとすれば(今福龍太氏が『ブラジルのホモ・ルーデンス』で主張する意味で),そのひとつの根拠はここにある,と思う。すなわち,「スポーツ評論」ではなくて「スポーツ批評」が。
だから,『ドグマ人類学総説・西洋のドグマ的諸問題』(ピエール・ルジャンドル著,西谷修監訳,嘉戸一将/佐々木中/橋本一径/森元庸介訳,平凡社,2003年)という分厚い訳書が,ルジャンドルの来日に合わせて刊行され,一躍,大きな話題となったときの世間の驚きもまた大変なものだった。この本が初めて世にでたのは,ルジャンドルが来日したときの第一回目の講演(2003年10月,於・東京外国語大学)に合わせて,できあがったばかりの訳書を平凡社の関口さんが担いで持ち込んだものだった。わたしは幸いなことに,西谷さんから献本していただき,少し早めに手にすることができた。
嬉しくてすぐに読みはじめた。しかし,どこを読んでみても難解で,全然,中に入っていけない。困っていたら,冒頭に「ドグマ人類学への導入──訳者から読者へ」という西谷修さんによる解説があった。いつものように,どんな難解な本も,西谷さんの手にかかると,みごとなまでにわかりやすい本に早変わりする。つまり,わかったような気にさせてくれるのである。そこで,気を取り直してルジャンドルの本文に挑む。しかし,ほどなく跳ね返されて,また,西谷さんの解説を読む。そんなことを何回,くり返したことだろうか。でも,こんなことをくり返しているうちに,これまでに読んできた本とはまったく異なる,きわめて重要な問題提起を含んでいる,ということだけはつたわってくる。
さて,前置きはこの程度にして,では,「ドグマ人類学」と「スポーツ批評」の接点はどこにあるのか,この一点に限定して,西谷さんの解説を先達として,少しだけ踏み込んでみたいと思う。
「端的に言えば,ドグマ人類学は人間が『話す生き物』であるという規定から出発する。だが,人間は生まれたときからことばを話すわけではなく,ことばを話すようにならなければならない。この過程はふつう『ことばの獲得』などと言われるが,実際にはそれは意志的なプロセスではなく,幼児の周囲に飛び交うことばの網に捕捉され,その網目のなかに取り込まれることでいつの間にかことばの主体になるのであり,いわばことばの秩序に身丈を合わせてそこの住人になるようなものである。そのとき注意すべきは,ことばがすでにひとつの秩序であり,規範的なものだということである。ことばそのものが規則をもっているというだけでない。ことばはつねに何かを語っており,ことばの秩序に参入するとは,その語りの通告を身に受け,それを通して主体として造型されるということでもある。それによって初めてひとは通じることばを話す主体となる。」(P.7~8.)
この世に生をうけた赤ん坊が「話す生き物」としての人間になる過程が,すでにして「ドグマ」的なのだというわけです。つまり,「ことばを話す主体」は,ことばによって造型されるものであって,一定の秩序や規範のもとにコントロールされる,そういう存在である,ということである。言ってしまえば,「話す生き物」としての人間の主体そのものがすでにドグマなのである。もっと言ってしまえば,ことばそのものが「ドグマ」なのだから。日本語の「木」は英語では「tree」であり,ドイツ語では「Baum」となるように。つまり,それぞれの言語は,それぞれの秩序や規範にもとづきながらも,もとはといえばドグマ的に「名づけ」を行うことからはじまるのだ。
巻末の用語解説によれば,「ドグマ」(dogme)については以下のように述べられている。
「ルジャンドルの仕事を貫くもっとも基礎的な概念。それはまずもって真理としての強制力をもつ言説の謂だが,同時に「見せかけ」や「臆見」といった意味とも無関係ではない。ごく簡単にいえば,この言葉が意味するのは,ある文化において人間が人間であろうとするかぎり,真理として受け容れなければならない言説やイメージのことである。こうした観点からすれば,真理はそもそも虚偽と不可分であり,そこから,社会的な水準でのフィクションの組立が,主体の制定にとって不可分な要請として浮上してくる。」(P.369.)
ここではじつにコンパクトに「ドグマ」という用語についての解説がなされている。具体的な内容については,本文に展開されている事例を一つひとつ点検していく以外にはない。しかし,ルジャンドルの主張する「ドグマ」の考え方を,一気に飛躍するが,スポーツ(文化)に当てはめて考えていくと,そこには恐るべき新たな知の地平が開けてくることに気づく。たとえば,西洋近代が生み出した「競技スポーツ」は,まさに西洋近代の「ドグマ」的産物でしかない,という事実である。
もう少し踏み込んでおけば,西洋近代が生んだ競技スポーツの「ルール」や「マナー」や「フェア」や「ウェア」や「用具・施設」や「組織」や「制度」や「アマ・プロ」や「トレード」や「トレーニング」や「管理・運営」や「金銭」や「ドーピング」や・・・・書き出したらエンドレス・・・・とうとうも西洋近代が生み出した「ドグマ」的産物でしかない,ということだ。問題は,この西洋近代のドグマ的産物でしかない,つまり,ある特殊なヴァージョンでしかない競技スポーツが,まるで「普遍」の真理であるかのごとく地球上のすみずみにまで浸透しつつある,この現実にある。ここから,伝統スポーツとグローバリズムの問題系が立ち上がってくる。
さらには,スポーツ(文化)ほど「ドグマ」の問題系を考える上で面白い題材はないだろう,という仮説である。つまり,永遠のテーマとされる「スポーツとはなにか」という問いに,西洋近代の論理で応答しようとしても,それは出口のない堂々巡りの議論になってしまう。つまり,同じ穴の狢になってしまうだけだ。そこから抜け出すには,西洋近代が排除・隠蔽してきた「ドグマ」的視座に立つ論考が,ひとつの方法論としてきわめて有効である,ということだ。
つまり,「スポーツとはなにか」を,ドグマ人類学的手法を用いて解き明かしてみるという試みである。そして,そのとき,西洋近代によって排除・隠蔽されてきたスポーツ(文化)の豊穣なバックグラウンドが浮び上がってくるに違いない。そこまで思考の「根」を降ろしたとき,「スポーツとはなにか」という問いに対する驚くべき応答が待っている,とわたしは考える。
ふたたび西谷さんの解説を引いてみよう。
「『ドグマ』とは,ごく簡単に言えば,ことば以前の『生き物』の要請がことばの次元に翻案されるときの非対称的な交換のあり方であり,根拠もなく,それ自身が無根拠の根拠を組み立てて『真』なるものを可能にするような,あらゆる人間的コミュニケーションの根底を支える発端の構造の謂である。その神話的表現をルジャンドルは,神々の使者として人間にことばを伝えた古代のヘルメスの形象に見ている。不分明な始原とことばの世界とを繋ぐもの,それが『ドグマ的表象』であり,それは『他所に運ぶ」という語源的意味での文字どおりの『メタファー』でもあって,あらゆる『真』が可能になるような,そして『理性原理』が演じられるような,根本的な『フィクション』の次元の支えでもある。」(P.10.)
このような文章を熟読玩味していると,いつしか,ジョルジュ・バタイユが<横滑り>ということばで表現した,動物性から人間性への「離脱と移動」(西谷さんの著書の名前を借用)のテーゼと二重写しになって,わたしにはみえてくる。そして,スポーツの「始原」(「起源」ではない)やスポーツの「変容」(「発展」ではない)というスポーツの根源的な問いかけと応答が可能になってくるように思う。
「スポーツ批評」が成立するとすれば(今福龍太氏が『ブラジルのホモ・ルーデンス』で主張する意味で),そのひとつの根拠はここにある,と思う。すなわち,「スポーツ評論」ではなくて「スポーツ批評」が。
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