2013年3月16日土曜日

玄侑宗久さんの短編「Aデール」(『四雁川流景』所収)を読む。

 「Aデール」というタイトルをみて,いったい,なんの話なのだろうと思いながら読みはじめました。読むほどに身につまされる話で,最後には,腕組みをしてじっと考えこんでしまいました。ああ,わたしも自分では気がつかないうちに,まぎれもなく「Aデール」のレベルが低くなっている,とわかったからです。しかも,この数カ月の間に顕著になっている・・・・と。

 「Aデール」の種明かしは,この作品のなかで,ユーモアとともに語られているのですが,ここでは直截に説明しておきましょう。「Aデール」とは,「ADL」のこと。つまり,Activities of Daily Living の頭文字。日本語では「日常生活動作」というわけです。この英語の頭文字を,いくぶん訛って,「D」を「デー」と発音すると「エーデール」となります。それを,わざわざ「Aデール」と表記したところに,玄侑宗久さんの文学的な工夫とユーモアが表れている,ということでしょう。

 この短編の主人公の千鶴さん(20歳)は特別養護老人ホームで働くヘルパーさん。まだ,駆け出しですが,介護福祉士の資格取得をめざして修行中。ですから,このホームにきて,所長さんたちがときおり発する「ADL」ということばが「Aデール」と聞こえてしまったので,そのままの発音で,その意味を問いただす,という場面が小説のなかに折り込まれています。

 まあ,そんな経緯はどちらでもよくて,このホームにいるご老人たちは基本的には認知症のために日常生活動作,つまりは「Aデール」のレベルが低下しています。で,その認知症の治療のために「回想法」をもちいています。つまり,むかしの若かりしころのしっかりした記憶を「回想」することによって,脳を活性化させ,日常生活活動のレベルを高めようというわけです。

 この小説を読みながら,これは他人事ではない,と本気で身につまされることになってしまった,というのが正直なところです。つまり,立派な認知症がわたしにも発症している,と自覚させられてしまったからです。もう,ずいぶん前に,ゲーテという固有名詞が思い出せないことがあって,慌てたことがありました。が,その症状はまぎれもくな徐々に徐々に進行していました。いまは,もう,加速度的に,有名人の名前が口からでなくなってきています。いよいよだなぁ,とそれなりに覚悟をしはじめていました。

 が,この短編を読みながら,「Aデール」のレベルが下がってきていることを知り,これは只事ではない,と焦りはじめています。たとえば,自分の身のまわりのものの片づけができなくなってきています。とりわけ,書斎のなかはゴミの山です。捨てればいいのに,それができません。あとで,あとで,と思っているうちに,どんどんたまってきます。気づけば,ゴミの山の隙間にかろうじてパソコンを置いて,そのわずかなスペースで仕事をしています。

 それだけならまだしも,最近は,片づけなくてはならない,締め切りのきている仕事が山ほどあるのに,平然と「あとで」と居直っています。少しも仕事がはかどらないのに,焦ることもなく平気でいます。ここが大問題です。急がなくてはいけない仕事も放りっぱなしにして,好きなことだけは忘れることなく夢中になっています。まるで幼児のようです。困ったものです。これは相当に重症だ,ということを「Aデール」という短編が教えてくれました。ありがたいような,ありがたくないような,悲しいお話です。

 いよいよこのことに気づいた以上は,この「Aデール」のレベルを上げるために「回想法」を施さなくては・・・と,こんどは真剣です。さて,どんな「回想法」がいいのだろうか,と考えてしまいます。亡父の晩年のころ,「わが生い立ちの記」を熱心に書きつづけていたことを思い出します。そのころは,とても元気で,趣味の俳句もときおり新聞に掲載されたりして,喜んでいました。そうか,「わが半生記」ならば,頼るべきはわが記憶のみ。「回想法」としては効果があるかもしれない,とたったいま思いついたところです。

 でも,それに夢中になると,頼まれた仕事は,やはり放りっぱなしになってしまいそう・・・・。それはやはりちょいとまずいなぁ・・・・,などとあれこれこれから検討しなければなりません。

 それにしても,玄侑宗久さんの「Aデール」には参りました。「Aデール」のつぎには認知症が待ち受けているというのですから・・・・・。

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