2013年3月5日火曜日

「五輪は東京」を国を挙げてアピールするが,ほんとうにそれでいいのか。否。

 今日(4日)から4日間(7日まで)の予定の,IOC評価委員会による現地調査がはじまった。安倍首相は国会決議を演出し,猪瀬知事はこの4日間のために入念なリハーサルを繰り返し,インパクトのあるお土産まで用意しているという。つまり,国を挙げて五輪招致に全力投球である。

 国会決議では「国民に夢と希望を与え,東日本大震災からの復興を世界に示すものだ」と謳い挙げている。はたして,これが全国民の意思なのだろうか。2020年に東京でオリンピックを開催する意味はなにかということについて,いつ,どこで,だれが,どのようにして,本気で考え,議論したというのだろうか。国会でも,まともな議論もないまま,突然の「決議」表明である。

 政治先行,国民不在(都民不在)の五輪招致運動がいよいよ大詰めを迎えている。スポーツはいまやその理念も理想もどこかに消えてしまって,完全に政治課題になっている。つまりは,「五輪招致」を勝ち取るためのゲームと化してしまった。こうなると,勝つことだけが意味があることになり,負けは許されなくなる。

 この雰囲気のなかで,「五輪招致」反対と意思表明するだけで「国賊」扱いされかねない。それでも,ひとこと,「五輪招致」反対,と言っておこう。国賊にされることを覚悟して。

 いま一度,国会決議文を確認しておこう。「国民に夢と希望を与え,東日本大震災からの復興を世界に示すものだ」。ほんとうにそうだろうか。わたしはそうは考えない。

 わたしの「五輪招致」反対の理由は,まず第一は,「オリンピック・ムーブメントのミッションは終わった」という歴史的な認識にある。それに加えて,日本という国家がいま現在抱え込んでいる「国難」を隠蔽する行為に与すべきではない,というのが第二の理由である。第三には,スポーツ界に深く浸透している「暴力」体質がある。第四,第五,とつづく。

 第一の理由については,『近代スポーツのミッションは終わったか』(稲垣正浩・西谷修・今福龍太共著,平凡社)に詳しいので,そちらに譲る。

 第二の理由,つまりは「国難」については,以下のとおり。スペースがないので,ごく簡単に箇条書きにしておく。
 1.フクシマは,ほんとうに終息したといえるのか。いまもきわめて危険な状態がつづいているのだ。政府もメディアもひた隠しにしているが・・・・。
 2.沖縄の基地問題をいつまで沖縄県民に押しつけて,ヤマトのわたしたちは知らぬ勘兵衛を決め込もうというのか。沖縄県民に「夢と希望を与え」ることが,「五輪招致」によって,ほんとうに実現すると考えているのか。
 3.自分の家・土地を追われてしまって,帰るに帰れない人びとにとってオリンピックはなんの意味があるというのか。
 4.原発再稼働に向かうこととオリンピック・ムーブメントの理念(より速く,より強く,より高く)とは,「同根」「異花」である。すなわち,勝利至上主義。
 5.憲法改悪,軍隊,戦争,「強い国家」をめざす思想もまた,オリンピック・ムーブメントと同根である。つまり,優勝劣敗主義。
 6.東日本大震災からの復興と五輪招致はなんの関係もない。
 7.その他(割愛)。

 第三の理由も箇条書きにしておく。
 1.全柔連柔道女子で起きた監督・コーチによる「暴力」問題は,日本のスポーツ界に潜む氷山の一角にすぎないこと。今日(4日),いみじくも監督代行の田辺勝さんとコーチの貝山仁美,薪谷翠さんが辞意表明をしている。この根は深い。いよいよクーデターか。
 2.桜宮高校で起きた暴力事件もまた氷山の一角にすぎない。
 3.高校野球も同じ。PL学園が暴力事件にからみ出場辞退,など。
 4.こうして挙げていくと際限がない。そういう「スポーツ未熟国」からの脱出が先決である。
 5.つまり,監督もコーチも選手たちも,ひとりのスポーツを愛する人間として,スポーツ的に自立・自律することが先決である。それができていないかぎり「五輪を招致」する資格はない。

 第四,第五の理由を挙げつらう意欲も萎えてきた。まとめておけば,ある特定の「だれか」が得をするために「五輪招致」運動が展開されている,ということ。この「だれか」を推論していけば,おのずからその実体は明らかになってくるだろう。つまりは,総理大臣を筆頭に,都知事,JOC会長,マス・メディア,財界,官界,学界,そしてゲンシリョクムラの住民・・・・などなど。

 すなわち,「国民に夢と希望を与え,東日本大震災からの復興を世界に示すものだ」という決議文に鮮明に表れているように,「五輪招致」運動は,まさにわたしたちが直面している「国難」の「隠れ蓑」として絶好のツールなのだ。「国難」を忘却のかなたに送り込み,排除・隠蔽するための,まことに便利な,そして扱いやすい「お道具」なのだ。権力にとって,これほど役に立つ文化装置は,ほかにはない。

 かつての古代ローマの皇帝たちが好んだ「パンとサーカスを」の現代版を,いま,日本は国を挙げて再現しようとしているのだ。国民を愚民化することのために国会まで動員して。このことの重大さに多くの国民が気づいていない。こうして「正義」が形成され,「国賊」が槍玉に挙げられることになる。洋の東西を問わず,むかしからくり返されてきた愚行ではあるのだが・・・・。

 以上が,「国賊」たるわたしの「五輪招致」反対の理由である。そろそろ,このことに多くの国民が気づいてほしいものだが・・・・・。

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