3月16日(土)の東京新聞・朝刊の投書欄に,「スポーツ人,原発考えて」と題して松田まさる(76歳・家事手伝い・千葉県柏市)が下記のような一文を投じています。一瞬,ドキッ,としました。そして,深く考えてしまいました。短いので, まずは全文,引用しておきましょう。
9,10日にあった脱原発集会で,先頭にはいつものように作家の大江健三郎さんなどの方々がいた。本当に頭の下がる思いだ。そして,そのたびに腹立たしく思うのが,なぜそこに芸能やスポーツ界の重鎮がいないのかということだ。
万人に影響のある人々の参加こそ,こうした運動に有効である。原発は政治問題ではない。次世代の命の問題である。沈黙は許されないと思う。
五輪招致やワールド・ベースボール・クラシック(WBC)と熱が入っているが,スポーツは別だなんて理屈は通らない。社会への関心度の低さが,体罰を温存させるなど古い体質をつくる。
スポーツ人よ,原発のない,汚れた土地と空気のない日本にしてこそ,世界に範となる五輪を開催できるのだと思いませんか。
投稿者の松田まさるさんはわたしより1歳上で,柏市から熱心に日比谷公園や首相官邸前に足を運んでいらっしゃる方だとわかり,頭が下がります。それに比べるとわたしなどは,今日こそ行くぞ,と自分を叱咤激励しないとなかなか足が向かいません。その意味で,この投書を読んで「ドキッ」とした次第です。
松田さんの主張はまことにもっともな話。なぜ,「次世代の命を守る」運動だというのに,スポーツ界(ここではスポーツ界に限定しておこう)の重鎮は行動を起こさないのか。そして,アスリートたちも行動を起こさないのか。このことと「社会への関心度の低さが,体罰を温存させるなど古い体質をつくる」という松田さんの主張にこころから賛成です。
その意味では,スポーツ界が社会と断絶した「閉鎖社会」を構成しているのは事実です。ですから,多くのアスリートたちは,その「閉鎖社会」が当たり前のこととなり,そこで通用する慣習行動が常識になってしまいます。スポーツ界にはびこる「体罰」は,その「閉鎖社会」で生まれてきた悪しき慣習行動です。
そこを通過してスポーツ界の重鎮になった人たちのほとんどは,社会への窓口をもっていません。そうやって生きてきたのですから。
このことの意味は重大です。つまり,野球とか,相撲とか,サッカーとかの専門家としては通用しても,日本人として,ひとりの社会人としては通用しない人がたくさんいます。つまり,ひとりの人間として「自立」していない,ということです。そういう人たちは,原発のことは,自分のかかわっているスポーツとはなんの関係もない,と信じて疑わないでしょう。
なかには,しっかりと「自立」しているアスリートや監督・コーチもいます。重鎮にもいます。そして,個人的に話すとみんな「反原発」を口にします。しかし,この人たちもまた公的な場にでると「無口」になってしまいます。黙り込んでしまって,行動も起こさない,ということは「原発推進」に賛成しているのと同じですよ,と伝えることにしています。しかし,それでも行動を起こすことはできない,と下を向いてしまいます。
オリンピック・ムーブメントが「平和運動」だというのなら(オリンピック憲章にそう書いてある),「反核」「反原発」を訴えるべきです。それこそがオリンピック招致運動のトップに立つ都知事をはじめとするJOCや日本体育協会,そしてスポーツ界の重鎮,監督・コーチ,さらには,トップ・アスリートたちの「責務」であるはずです。この人たちが「反原発」の先頭に立ち,デモ行進に参加するようになったら,わたしも「オリンピック東京招致」に賛成するでしょう。オリンピックは「平和運動」であるという原点を忘れてはなりません。
しかし,そういう人たちが,みんな「われ関知せず」という姿勢をとっています。つまり,長いものに巻かれて,大樹の陰に身を寄せ,上意下達の「閉鎖社会」のなかで保身に励んでいます。そこからは「自立」した人間は育ちません。むしろ,口に蓋をして「思考停止」し,率先して「自発的隷従」をし,忠誠心を示すことが,こういう「閉鎖社会」を生き延びていくためには必要になってきます。これがスポーツ界という「閉鎖社会」の実態です。どこぞで聞いたような社会と「瓜二つ」です。
しかし,このことは,なにもスポーツ界だけの特殊事情ではありません。わたしたちの身のまわりの「組織」「団体」,すべからく,似たような「体質」をもっています。この「体質」から抜け出すこと,そして,ひとりの人間として「自立」すること,そこを目指す以外には日本の未来はなさそうです。
そういう日本社会の異常性が,「3・11」以後,つぎからつぎへと露呈してきました。「体罰」問題もその一環です。その意味では,日本の社会を変革させるべき絶好のチャンスです。そのためには,わたしたち一人ひとりが「自立」して,生き物として生きのびる方途を考えることが,必要不可欠だと考えます。その第一歩が「反原発」です。わたしは,そんな風に考えています。
松田まさるさんの,こころの声に,敬意を表しつつ。
※この問題は,きわめて重大なことがらを含んでいますので,これからも対象を代えて論じてみたいと思っています。
9,10日にあった脱原発集会で,先頭にはいつものように作家の大江健三郎さんなどの方々がいた。本当に頭の下がる思いだ。そして,そのたびに腹立たしく思うのが,なぜそこに芸能やスポーツ界の重鎮がいないのかということだ。
万人に影響のある人々の参加こそ,こうした運動に有効である。原発は政治問題ではない。次世代の命の問題である。沈黙は許されないと思う。
五輪招致やワールド・ベースボール・クラシック(WBC)と熱が入っているが,スポーツは別だなんて理屈は通らない。社会への関心度の低さが,体罰を温存させるなど古い体質をつくる。
スポーツ人よ,原発のない,汚れた土地と空気のない日本にしてこそ,世界に範となる五輪を開催できるのだと思いませんか。
投稿者の松田まさるさんはわたしより1歳上で,柏市から熱心に日比谷公園や首相官邸前に足を運んでいらっしゃる方だとわかり,頭が下がります。それに比べるとわたしなどは,今日こそ行くぞ,と自分を叱咤激励しないとなかなか足が向かいません。その意味で,この投書を読んで「ドキッ」とした次第です。
松田さんの主張はまことにもっともな話。なぜ,「次世代の命を守る」運動だというのに,スポーツ界(ここではスポーツ界に限定しておこう)の重鎮は行動を起こさないのか。そして,アスリートたちも行動を起こさないのか。このことと「社会への関心度の低さが,体罰を温存させるなど古い体質をつくる」という松田さんの主張にこころから賛成です。
その意味では,スポーツ界が社会と断絶した「閉鎖社会」を構成しているのは事実です。ですから,多くのアスリートたちは,その「閉鎖社会」が当たり前のこととなり,そこで通用する慣習行動が常識になってしまいます。スポーツ界にはびこる「体罰」は,その「閉鎖社会」で生まれてきた悪しき慣習行動です。
そこを通過してスポーツ界の重鎮になった人たちのほとんどは,社会への窓口をもっていません。そうやって生きてきたのですから。
このことの意味は重大です。つまり,野球とか,相撲とか,サッカーとかの専門家としては通用しても,日本人として,ひとりの社会人としては通用しない人がたくさんいます。つまり,ひとりの人間として「自立」していない,ということです。そういう人たちは,原発のことは,自分のかかわっているスポーツとはなんの関係もない,と信じて疑わないでしょう。
なかには,しっかりと「自立」しているアスリートや監督・コーチもいます。重鎮にもいます。そして,個人的に話すとみんな「反原発」を口にします。しかし,この人たちもまた公的な場にでると「無口」になってしまいます。黙り込んでしまって,行動も起こさない,ということは「原発推進」に賛成しているのと同じですよ,と伝えることにしています。しかし,それでも行動を起こすことはできない,と下を向いてしまいます。
オリンピック・ムーブメントが「平和運動」だというのなら(オリンピック憲章にそう書いてある),「反核」「反原発」を訴えるべきです。それこそがオリンピック招致運動のトップに立つ都知事をはじめとするJOCや日本体育協会,そしてスポーツ界の重鎮,監督・コーチ,さらには,トップ・アスリートたちの「責務」であるはずです。この人たちが「反原発」の先頭に立ち,デモ行進に参加するようになったら,わたしも「オリンピック東京招致」に賛成するでしょう。オリンピックは「平和運動」であるという原点を忘れてはなりません。
しかし,そういう人たちが,みんな「われ関知せず」という姿勢をとっています。つまり,長いものに巻かれて,大樹の陰に身を寄せ,上意下達の「閉鎖社会」のなかで保身に励んでいます。そこからは「自立」した人間は育ちません。むしろ,口に蓋をして「思考停止」し,率先して「自発的隷従」をし,忠誠心を示すことが,こういう「閉鎖社会」を生き延びていくためには必要になってきます。これがスポーツ界という「閉鎖社会」の実態です。どこぞで聞いたような社会と「瓜二つ」です。
しかし,このことは,なにもスポーツ界だけの特殊事情ではありません。わたしたちの身のまわりの「組織」「団体」,すべからく,似たような「体質」をもっています。この「体質」から抜け出すこと,そして,ひとりの人間として「自立」すること,そこを目指す以外には日本の未来はなさそうです。
そういう日本社会の異常性が,「3・11」以後,つぎからつぎへと露呈してきました。「体罰」問題もその一環です。その意味では,日本の社会を変革させるべき絶好のチャンスです。そのためには,わたしたち一人ひとりが「自立」して,生き物として生きのびる方途を考えることが,必要不可欠だと考えます。その第一歩が「反原発」です。わたしは,そんな風に考えています。
松田まさるさんの,こころの声に,敬意を表しつつ。
※この問題は,きわめて重大なことがらを含んでいますので,これからも対象を代えて論じてみたいと思っています。
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