今日はなんだかひやっこい(三河弁)なぁと思いながら,いつものように鷺沼の事務所に出勤。昨夜,確認したメールの返信にとりかかりました。そうしたら,「誕生日おめでとう」メールが業者を含めて7人の方から入っていました。おやおや,とびっくり仰天です。そうかぁ,そうだったのかぁ,と溜め息まじりです。
とうとう「四分の三世紀」も生きてしまったか,と嬉しくもあり,侘しくもあり,というところ。なんともはや複雑です。でもまあ,まずは,元気いっぱい,ここまで生きてこられた丈夫なからだに恵まれたことを両親に感謝したいと思います。そして,遅きに失した感はありますが,いまごろになってますますスポーツ史・スポーツ文化論の世界の面白さがみえてきたことに,わたしを支えてくださった多くの研究者仲間に感謝したいと思います。とくに,最近の10年間は,わたしにとってとても充実した時間が過ごせたと感じています。
思い出すのは,ちょうど10年前の春,ドイツ・スポーツ大学ケルンから客員教授として招聘され,半年間,命懸けでゼミナールをこなしてきた経験です。いま,思い出しても冷や汗の流れることばかりでした。でも,このときのゼミナールの内容を帰国後,すぐに刊行して報告書代わりにみなさんに読んでいただきました。それが『身体論──スポーツ学的アプローチ』(叢文社,2003年)でした。ここを通過したことによって,ようやくわたしの思考の基盤が固まったように思います。
ここからあとは迷うことなく,わが信ずる道をまっしぐら。楽しい夢をいっぱい見させていただいています。その夢はいまもつづいていて,ますます展望が開けつつあります。そして,とうとう「スポーツとはなにか」という本の執筆にとりかかっています。これも,昨年,一年かけて神戸市外国語大学が主催する連続講演の通しテーマとしてお話をさせていただいたお蔭です。もう,内容の骨格はできていますので,あとは,どのように「編集」するかだけのことです。これが,神戸市外国語大学の客員教授としての最後のお勤めでした。
この3月末で,客員教授としてのお勤めも終わりです。その意味では公的な身分もなくなり,これからはまったくのフリー・ランサーとなります。もう,これからは失うものはなにもありません。ほんとうの意味で,わが心の赴くままに,わが信ずるところを,自由自在に尋ね歩いていきたいと思います。これまで長い間,わたしの背後で,不意に現れては,あれこれ指示をしていた不思議な存在の声にも,素直に耳を傾けていきたいと思います。
昨年の秋,わたしたちの研究者仲間と有馬温泉で過ごしたとき,西谷修さんから「稲垣さんもそろそろ<幕引き>のことを考えないと・・・」と天啓のような話がありました。はっ,と虚を突かれたように,一瞬,声を失ってしまいました。まったく唐突に(わたしにはそう聞こえました),<幕引き>ということばが飛びだし,考え込んでしまいました。そうかぁ,そうなんだぁ,と。その夜はほとんど眠れないまま,この<幕引き>ということばを反芻していました。やがて,そこには深い意味がある,ということも朧げながらみえてきました。
あれ以来,この<幕引き>のことを考えつづけてきました。もちろん,その後の太極拳の稽古のあとの昼食のときに,心根の優しい西谷さんはわたしを気遣いながら,<幕引き>の真意はこういうことです,と教えてくださいました。わたしが考えていたことが外れてはいなかったので,とても安心しました。しかし,その方法はとてもむつかしい,ということだけがこころにひっかかっていました。でも,方法ばかりを考えていてもはじまらない。なるようにしかならない,と割り切って行動を起こすことが大事とみずからに言い聞かせていました。
あとは,そのタイミングです。ちょうど,今日は「四分の三世紀」を生き長らえた記念すべき誕生日。天から降ってきたかのような「節目の日」。それも,わたし自身はすっかり忘れていた「3月26日」。そういう「節目の日」であることを,親切に教えてくれた人たちに,まずは,感謝しなくてはなりません。ありがとうございました。このタイミングを逃してはならない,とわたしの背後の声が申しています。ここは素直にその声に従うことにしたいと思います。
これから一年ほどかけて,ゆっくりと<幕引き>にとりかかりたいと思います。いろいろな人に,いろいろにご迷惑をおかけすることになると思います。どうぞ,お許しください。そして,わたしがほんとうの意味でのフリー・ランサーになったとき,それが,わたしの<余生>への最後のスタートの日となるでしょう。そこで書きはじめる文章は,たぶん,遺書のようなものになるでしょう。もう,すでに遅きに失しているかもしれません。でも,なんとか頭脳を鍛えておいて,しっかりしたものを書いてみたいと思います。
その第一作が『スポーツとはなにか』になればいいなぁ,と考えています。ですから,勘違いしないでください。わたしの<幕引き>は,公的な身分から離脱し,わたしが完全なるフリーランサーになるための,言ってみれば,まったく自由な身分に「移動」するための儀礼です。「水の中に水があるような」存在になるための予祝の儀礼です。
「遅れてやってきた青年」の,最後の夢の実現に向けて,これから気を入れ直して励みたいと思っていますので,よろしくお願いいたします。
嬉しくもあり,侘しくもあり,四分の三世紀。(空色)
とうとう「四分の三世紀」も生きてしまったか,と嬉しくもあり,侘しくもあり,というところ。なんともはや複雑です。でもまあ,まずは,元気いっぱい,ここまで生きてこられた丈夫なからだに恵まれたことを両親に感謝したいと思います。そして,遅きに失した感はありますが,いまごろになってますますスポーツ史・スポーツ文化論の世界の面白さがみえてきたことに,わたしを支えてくださった多くの研究者仲間に感謝したいと思います。とくに,最近の10年間は,わたしにとってとても充実した時間が過ごせたと感じています。
思い出すのは,ちょうど10年前の春,ドイツ・スポーツ大学ケルンから客員教授として招聘され,半年間,命懸けでゼミナールをこなしてきた経験です。いま,思い出しても冷や汗の流れることばかりでした。でも,このときのゼミナールの内容を帰国後,すぐに刊行して報告書代わりにみなさんに読んでいただきました。それが『身体論──スポーツ学的アプローチ』(叢文社,2003年)でした。ここを通過したことによって,ようやくわたしの思考の基盤が固まったように思います。
ここからあとは迷うことなく,わが信ずる道をまっしぐら。楽しい夢をいっぱい見させていただいています。その夢はいまもつづいていて,ますます展望が開けつつあります。そして,とうとう「スポーツとはなにか」という本の執筆にとりかかっています。これも,昨年,一年かけて神戸市外国語大学が主催する連続講演の通しテーマとしてお話をさせていただいたお蔭です。もう,内容の骨格はできていますので,あとは,どのように「編集」するかだけのことです。これが,神戸市外国語大学の客員教授としての最後のお勤めでした。
この3月末で,客員教授としてのお勤めも終わりです。その意味では公的な身分もなくなり,これからはまったくのフリー・ランサーとなります。もう,これからは失うものはなにもありません。ほんとうの意味で,わが心の赴くままに,わが信ずるところを,自由自在に尋ね歩いていきたいと思います。これまで長い間,わたしの背後で,不意に現れては,あれこれ指示をしていた不思議な存在の声にも,素直に耳を傾けていきたいと思います。
昨年の秋,わたしたちの研究者仲間と有馬温泉で過ごしたとき,西谷修さんから「稲垣さんもそろそろ<幕引き>のことを考えないと・・・」と天啓のような話がありました。はっ,と虚を突かれたように,一瞬,声を失ってしまいました。まったく唐突に(わたしにはそう聞こえました),<幕引き>ということばが飛びだし,考え込んでしまいました。そうかぁ,そうなんだぁ,と。その夜はほとんど眠れないまま,この<幕引き>ということばを反芻していました。やがて,そこには深い意味がある,ということも朧げながらみえてきました。
あれ以来,この<幕引き>のことを考えつづけてきました。もちろん,その後の太極拳の稽古のあとの昼食のときに,心根の優しい西谷さんはわたしを気遣いながら,<幕引き>の真意はこういうことです,と教えてくださいました。わたしが考えていたことが外れてはいなかったので,とても安心しました。しかし,その方法はとてもむつかしい,ということだけがこころにひっかかっていました。でも,方法ばかりを考えていてもはじまらない。なるようにしかならない,と割り切って行動を起こすことが大事とみずからに言い聞かせていました。
あとは,そのタイミングです。ちょうど,今日は「四分の三世紀」を生き長らえた記念すべき誕生日。天から降ってきたかのような「節目の日」。それも,わたし自身はすっかり忘れていた「3月26日」。そういう「節目の日」であることを,親切に教えてくれた人たちに,まずは,感謝しなくてはなりません。ありがとうございました。このタイミングを逃してはならない,とわたしの背後の声が申しています。ここは素直にその声に従うことにしたいと思います。
これから一年ほどかけて,ゆっくりと<幕引き>にとりかかりたいと思います。いろいろな人に,いろいろにご迷惑をおかけすることになると思います。どうぞ,お許しください。そして,わたしがほんとうの意味でのフリー・ランサーになったとき,それが,わたしの<余生>への最後のスタートの日となるでしょう。そこで書きはじめる文章は,たぶん,遺書のようなものになるでしょう。もう,すでに遅きに失しているかもしれません。でも,なんとか頭脳を鍛えておいて,しっかりしたものを書いてみたいと思います。
その第一作が『スポーツとはなにか』になればいいなぁ,と考えています。ですから,勘違いしないでください。わたしの<幕引き>は,公的な身分から離脱し,わたしが完全なるフリーランサーになるための,言ってみれば,まったく自由な身分に「移動」するための儀礼です。「水の中に水があるような」存在になるための予祝の儀礼です。
「遅れてやってきた青年」の,最後の夢の実現に向けて,これから気を入れ直して励みたいと思っていますので,よろしくお願いいたします。
嬉しくもあり,侘しくもあり,四分の三世紀。(空色)
0 件のコメント:
コメントを投稿