初めての東正横綱の地位についた日馬富士。終わってみれば,9勝6敗。片や白鵬は全勝。メディアがどのように論評するかは,火をみるより明らか。でも,それは素人の遠吠えにすぎない。
千秋楽の一番。白鵬は負けていた。完全に日馬富士のペース。日馬富士が全勝優勝を飾ったときの千秋楽の一番と同じパターンとなった。日馬富士の「左足首」の故障さえなかったら,またまた,あのときと同じように日馬富士の右上手投げと白鵬の左下手投げの打ち合いとなり,土俵を一周して上手投げが決まる場面だった。が,今場所は,その右上手投げが打てなかった。「左足首」の故障で。だから,最後は,白鵬のなんでもない左下手投げになんの抵抗もみせず,自分から転んでいった。「左足首」をかばっての,ひとり八百長。それでいいのだ。わたしには見応えのある立派な相撲にみえた。あれだけの故障をかかえていても,あそこまで抵抗し,館内を沸かせる攻防を繰り広げられる力士がほかにいるか。十分にゼニの取れる相撲だった。
日馬富士は,「左足首」の故障さえ直せば,白鵬には負けない,と確信した一番だったはず。片や,白鵬は「苦い思い」をしたに違いない。今場所,もっとも後味の悪かった一番のはず。あんな左下手投げで転がるような日馬富士ではない。そんなことは,本人が一番よくわかっていることだ。
でも,そんなこととは関係なくメディアは白鵬の全勝優勝を讃え,ついに双葉山・大鵬を抜いて全勝記録を9回に延ばした偉業を絶賛することだろう。たしかに,今場所の白鵬は調子がよかった。でも,相撲の内容はあまり褒めたものではなかった。それよりは,大関陣が弱すぎた,そのひとこと。これまでの白鵬の優勝回数も,すべては大関陣が弱すぎただけのこと。だから,日馬富士が大関から横綱に上がるときの,あの絶好調のときの日馬富士には白鵬は全部負けている。でも,大関のなかでただひとり,鶴竜は,今場所,白鵬に善戦した。おおいに自信をえたはず。これで鶴竜の相撲が化けるかもしれない。来場所の取り組みが面白くなりそうだ。
星勘定から離れて,相撲内容をみたとき,白鵬の「張り差し」の多さはなんともいただけない。調子がいいのに,なぜ,「張り差し」にいくのか。双葉山のような横綱になりたいと言っているわりには,こまかなところでえげつない。勝ちにこだわりをみせすぎる。ほんとうに強い横綱はそんなけちなことはしない。勝ち負けを超越した横綱相撲をめざしてほしい。かつての千代の富士のように。それだけの逸材なのだから。
かつて,日馬富士が上がってくるときに「張り差し」を多用して,メディアから叩かれた。日馬富士こそ,「張り差し」で先手をとって,あとはスピードで相手を攪乱し,自分の型にもちこむ,それが日馬富士本来の持ち味なのだから。にもかかわらず,メディアは叩いた。得意の右のど輪で相手をのけぞらせる相撲も,なにかとけちがつけられた。なぜか,日馬富士には必要以上に横綱らしい相撲が要求される。それは「ないものねだり」というものだ。かつての栃の海のように,あの手この手とあらゆる手を使って,スピードで勝負する横綱がいたっていいではないか。
今場所の日馬富士の相撲は,「左足首」のことはひとまず度外視するとして,いろいろな立ち合いをみせ,これまでとは一味違ったさまざまな試行錯誤がなされていたように思う。わたしの眼に深く印象に残ったのは,相撲に自信ができつつある,ということだ。たとえば,立ち合い,真っ正面からぶつかり合い,相手を両腕で挟み付けるようにして前にでようとした相撲がそれだ。以前には感じられなかった上半身の力強さと,どこからでも来いという自信・気魄のようなものが表出していたように思う。これは明らかに,日馬富士のこころとからだに,これまでになかった充実感が漲り,余裕すら感じさせるものだった。
しかし,いかんせん。時限爆弾の足首の故障が,今場所は,左足首の故障が命取りとなった。負けた相撲のほとんどは,左足首をかばっての転び方だった。だから,本人はすべて納得の上だ。その仕上げが千秋楽の相撲だった。白鵬が巻き変えて,右四つに組み止めて,これでよしと思ったはずだ。その瞬間に日馬富士は右上手の方に腰をひねって,白鵬の右上手を切った。これで日馬富士は万全の体勢を整えた。あとは,右上手投げを打つだけだ。
しかし,相撲はここまでだった。日馬富士の右上手投げは不発に終わった。左足首をかばうために。たぶん,全勝対決だったら,あそこから,日馬富士は左足首がどうなろうとも,右上手投げを打ってでただろう。そして,あの大一番のように,白鵬の左下手投げとの打ち合いになり,土俵を一周してでも上手投げを打ちつづけたことだろう。
ここは大事をとって来場所に備えた。それでいい。白鵬に貸しをつくっておけばいい。これが大相撲というものだ。プロなのだから,たった一番のために,無理をして相撲の寿命を縮めることはない。今場所はボロ負けの場所。来場所,故障をなおして万全の体勢で出直せばいい。そして,打倒白鵬,全勝をめざせ。故障さえ直せば,いまの日馬富士にはそれが可能だ。白鵬がもっともいやがるところ。
でも,いつか,二人の横綱の全勝対決をみたい。このときこそ,ガチンコがみられる。そして,白鵬の張り差しを,一瞬の「後の先」でかわし,左上手を引いて日馬富士が暴れ回る相撲がみてみたい。そんなことを予感させる千秋楽の相撲だった。
日馬富士よ,メディアがなんといおうと,気にすることはない。ちゃんと相撲がわかっているほんもののファンもいることを忘れないで,来場所に向けて,まずは,故障を直そう。君の相撲は無形文化財ほどの価値がある。相撲の天才だ。君にしかできない芸だ。その芸がますます輝きを増すように,日々,精進しよう。かつて,君が言ったように「優勝することよりも,正しく生きることをめざしたい」という名言を,わたしは忘れてはいない。
お疲れさま。日馬富士!
来場所を待っている。
千秋楽の一番。白鵬は負けていた。完全に日馬富士のペース。日馬富士が全勝優勝を飾ったときの千秋楽の一番と同じパターンとなった。日馬富士の「左足首」の故障さえなかったら,またまた,あのときと同じように日馬富士の右上手投げと白鵬の左下手投げの打ち合いとなり,土俵を一周して上手投げが決まる場面だった。が,今場所は,その右上手投げが打てなかった。「左足首」の故障で。だから,最後は,白鵬のなんでもない左下手投げになんの抵抗もみせず,自分から転んでいった。「左足首」をかばっての,ひとり八百長。それでいいのだ。わたしには見応えのある立派な相撲にみえた。あれだけの故障をかかえていても,あそこまで抵抗し,館内を沸かせる攻防を繰り広げられる力士がほかにいるか。十分にゼニの取れる相撲だった。
日馬富士は,「左足首」の故障さえ直せば,白鵬には負けない,と確信した一番だったはず。片や,白鵬は「苦い思い」をしたに違いない。今場所,もっとも後味の悪かった一番のはず。あんな左下手投げで転がるような日馬富士ではない。そんなことは,本人が一番よくわかっていることだ。
でも,そんなこととは関係なくメディアは白鵬の全勝優勝を讃え,ついに双葉山・大鵬を抜いて全勝記録を9回に延ばした偉業を絶賛することだろう。たしかに,今場所の白鵬は調子がよかった。でも,相撲の内容はあまり褒めたものではなかった。それよりは,大関陣が弱すぎた,そのひとこと。これまでの白鵬の優勝回数も,すべては大関陣が弱すぎただけのこと。だから,日馬富士が大関から横綱に上がるときの,あの絶好調のときの日馬富士には白鵬は全部負けている。でも,大関のなかでただひとり,鶴竜は,今場所,白鵬に善戦した。おおいに自信をえたはず。これで鶴竜の相撲が化けるかもしれない。来場所の取り組みが面白くなりそうだ。
星勘定から離れて,相撲内容をみたとき,白鵬の「張り差し」の多さはなんともいただけない。調子がいいのに,なぜ,「張り差し」にいくのか。双葉山のような横綱になりたいと言っているわりには,こまかなところでえげつない。勝ちにこだわりをみせすぎる。ほんとうに強い横綱はそんなけちなことはしない。勝ち負けを超越した横綱相撲をめざしてほしい。かつての千代の富士のように。それだけの逸材なのだから。
かつて,日馬富士が上がってくるときに「張り差し」を多用して,メディアから叩かれた。日馬富士こそ,「張り差し」で先手をとって,あとはスピードで相手を攪乱し,自分の型にもちこむ,それが日馬富士本来の持ち味なのだから。にもかかわらず,メディアは叩いた。得意の右のど輪で相手をのけぞらせる相撲も,なにかとけちがつけられた。なぜか,日馬富士には必要以上に横綱らしい相撲が要求される。それは「ないものねだり」というものだ。かつての栃の海のように,あの手この手とあらゆる手を使って,スピードで勝負する横綱がいたっていいではないか。
今場所の日馬富士の相撲は,「左足首」のことはひとまず度外視するとして,いろいろな立ち合いをみせ,これまでとは一味違ったさまざまな試行錯誤がなされていたように思う。わたしの眼に深く印象に残ったのは,相撲に自信ができつつある,ということだ。たとえば,立ち合い,真っ正面からぶつかり合い,相手を両腕で挟み付けるようにして前にでようとした相撲がそれだ。以前には感じられなかった上半身の力強さと,どこからでも来いという自信・気魄のようなものが表出していたように思う。これは明らかに,日馬富士のこころとからだに,これまでになかった充実感が漲り,余裕すら感じさせるものだった。
しかし,いかんせん。時限爆弾の足首の故障が,今場所は,左足首の故障が命取りとなった。負けた相撲のほとんどは,左足首をかばっての転び方だった。だから,本人はすべて納得の上だ。その仕上げが千秋楽の相撲だった。白鵬が巻き変えて,右四つに組み止めて,これでよしと思ったはずだ。その瞬間に日馬富士は右上手の方に腰をひねって,白鵬の右上手を切った。これで日馬富士は万全の体勢を整えた。あとは,右上手投げを打つだけだ。
しかし,相撲はここまでだった。日馬富士の右上手投げは不発に終わった。左足首をかばうために。たぶん,全勝対決だったら,あそこから,日馬富士は左足首がどうなろうとも,右上手投げを打ってでただろう。そして,あの大一番のように,白鵬の左下手投げとの打ち合いになり,土俵を一周してでも上手投げを打ちつづけたことだろう。
ここは大事をとって来場所に備えた。それでいい。白鵬に貸しをつくっておけばいい。これが大相撲というものだ。プロなのだから,たった一番のために,無理をして相撲の寿命を縮めることはない。今場所はボロ負けの場所。来場所,故障をなおして万全の体勢で出直せばいい。そして,打倒白鵬,全勝をめざせ。故障さえ直せば,いまの日馬富士にはそれが可能だ。白鵬がもっともいやがるところ。
でも,いつか,二人の横綱の全勝対決をみたい。このときこそ,ガチンコがみられる。そして,白鵬の張り差しを,一瞬の「後の先」でかわし,左上手を引いて日馬富士が暴れ回る相撲がみてみたい。そんなことを予感させる千秋楽の相撲だった。
日馬富士よ,メディアがなんといおうと,気にすることはない。ちゃんと相撲がわかっているほんもののファンもいることを忘れないで,来場所に向けて,まずは,故障を直そう。君の相撲は無形文化財ほどの価値がある。相撲の天才だ。君にしかできない芸だ。その芸がますます輝きを増すように,日々,精進しよう。かつて,君が言ったように「優勝することよりも,正しく生きることをめざしたい」という名言を,わたしは忘れてはいない。
お疲れさま。日馬富士!
来場所を待っている。
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