2013年3月25日月曜日

『琉球新報』(Ryukyushimpo.jp)をお薦めします。<自立>のために。

 唐突な,あまりに唐突な,「辺野古埋め立て申請」について沖縄の人びとがどのような反応を示しているのか,本土の新聞・テレビはほとんど報道しない。だから,国民の圧倒的多数は「怒っているらしい」くらいの認識しかない。こうして,沖縄差別が,国民の無意識のうちにますます醸成されていくことになる。

 「辺野古埋め立て申請」書類が提出された日には,『琉球新報』も『沖縄タイムス』もこぞって「号外」を刷り,街ゆく人びとに配布したという。地元のテレビもラジオも一斉にこの問題をとりあげ,いよいよ決戦のときがきた,と受けとめていたという(沖縄在住者からの情報による)。

 川崎市に暮していると,どうしても沖縄情報には疎くなってしまう。こんな重大なニュースですら,ヤマトでは,ほかのニュースに掻き消されてしまう程度にしか扱わない。だから,こういうときは,ネットで『琉球新報』の情報を入手することにしている。Ryukyushimpo.jp で無料でほとんどの情報を読むことができる。場合によっては,過去の記事を検索することもできる。まことに便利で,助かる。メディアとはなんであるかという気概が感じられる。

 今日(25日)の『琉球新報』によれば,4月には自民党県連の総会を開き,「米軍基地県外移設」を再度確認する,という。自民党の沖縄県連が「県外移設」をずっと前から主張しているというのに,中央の自民党政権は知らん顔で,辺野古移設を強引に押し進めようとしている。いったい,自民党という政党はなにを考え,なにをやろうとしているのか。県連が全会一致で決議していることをも,本部は無視して平然としている。説得の努力すらしていない。

 こうして,あちこち検索していたら,書評情報にゆきあたり,思わず「オーッ!」と声を挙げてしまった。そこには,西谷修編『<復帰>40年の沖縄と日本──自立の鉱脈を掘る』(せりか書房,2012年12月刊)が取り上げられていたのだ。評者は桃原一彦さん(沖縄国際大学)。そうか,桃原さんが読むと,こういうことになるのか,ととても新鮮な感じがした。やはり,本土で育った評者と,沖縄に生まれ育った評者の間には,基本的な違いがあるのだ。たとえば,<復帰>40年と向きあう姿勢が違う。そこには実際に40年を生きた人間の実体験がある。だから,記憶の密度が違うのである。つまり,からだに刻み込まれたさまざまな記憶とともに「40年」が回顧される。だから,血がかよっている。

 そこで,あらためてこのテクストをとり出してきて,あちこちページをめくってみる。そこに,真島一郎さんの論考がある。すでに,読んで承知していた。しかし,3月9日(土)の研究会のゲスト・スピーカーとしてお話を聞かせていただくにあたって,わたしの意識は『20世紀<アフリカ>の固体形成』(平凡社,2011年)のなかの真島さんの冒頭論文「序 固体形成論」に惹きつけられていた。でも,この論旨がなかなか難解で確信がもてるところまでにはいたっていなかった。

 偶然とは恐ろしいものである。今日になって,この『<復帰>40年の沖縄と日本──自立の鉱脈を掘る』のなかの真島さんの論考「「異族の論理」──死者的な」を読み返してみて,ハッと気づくものがあった。真島さんの主張される「固体形成」とは,換言すれば「自立」ということではないか,と。だとすれば,「「異族の論理」──死者的な」は,そのまま「沖縄自立論」として受けとめることができるではないか,と。

 このテクストの編者である西谷さんが,サブタイトルに「自立の鉱脈を掘る」と命名したことの意味もすっきりととおる。そう考えなおして,もう一度,真島さんの論考を読み返す。仲里効さんの「いとしのトットロー──目取真俊とマイナー文学」(『悲しき亜言語帯──沖縄・交差する植民地主義』所収,未來社,2012年)を手がかりにして,川満信一さんの長年にわたる主張と目取真俊の文学とを重ね合わせた,きわめて濃密な論考であることがわかってくる。そして,なんと,その主張に一貫しているものが「自立」であった。

 この論考のなかにも,真島さんがみずから書き込まれているように,「私個人には『ヤマトのアフリカニスト』としての自己否定が懸かっていた」,とのっぴきならない思考の深みへとみずから身を投げ出していく,そんな迫力満点の文章がつづく。

 ウチナンチュが,死者的な「異族の論理」を生きているとしたら,では,ヤマトンチュの「生」はいったいなんなのか,という鋭い矢がUターンして飛んでくる。だから,真島さんは真剣勝負としての「自己否定」を懸けて,それも二重の「自己否定」を懸けて,あのとき以来の沖縄シンポジウムに臨み,この論考を書いているのだ。

 運がよければ,こんどの4月にも,真島さんをまじえた3人で,あるシンポジウムでご一緒できるかもしれない。それまでに,きちんとした準備をしておかなくてはならない。真島さんに比べたら,わたしのスタンスはあまりにも甘い。第一に,「自己否定」が懸かっていない。スポーツの問題をもっともっと先鋭化して考えていかなくてはならない,としみじみ思う。わけても,いま,問題の渦中にある「スポーツマンの自立」をテーマ化しつつ,思考を深めていきたいと。

 これもまた,Ryukyushimpo.jp のとりもつご縁というべきか。

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