2013年3月2日土曜日

作家・稲垣瑞雄さんの思い出。多芸多才の人。

 通夜の読経を聞きながら(このときの読経は素晴らしかった),瑞雄さんの生涯とはどのようなものだったのだろうかとあれこれ推測しているうちに,いつのまにかわたしは子ども時代の思い出をたどっていた。瑞雄さんとわたしは7つ違いの従兄弟。敗戦後の混乱期に,わたしたち家族は住む家がなくて,瑞雄さん家族(父の兄家族)の住む豊橋市のはずれの禅寺・長松院(山号・堀内山)に転がり込んだ。1947年夏・わたしが小学校3年生のときのこと。瑞雄さんは新制高校の1年生だったか。このときが,瑞雄さんとの最初の出会いだった。子どもだったわたしには,もう,立派な大人にみえた。

 ほんの短い間だったが,二家族がともに暮らした。寺とはいえ,子どもが5人と4人,両親を含めて全部で13人の暮らしである。賑やかなものである。食事のときには,13人,勢ぞろいしてみんなで食べた。とはいえ,食べるものもほとんどなくて,ずいぶんと苦労していたことを思い出す。いよいよというときには,鶏のえさとなる米ぬかを捏ねてだんごにし,庭で取れる野菜と一緒に炊いて「だんご汁」と称して食べていた。だれひとりとして文句は言わない。文句を言った瞬間に食べ物をとりあげられ,その日の夕食はおあずけ。大勢のわりには静かな食事の時間だった。いつも空腹をかかえていたから,もくもくと食べた。もちろん,瑞雄さんも黙って食べていた。子どもたちの坐る席の一番の上座で。こんな大家族の食事を用意していた伯母さんもたいへんだったんだなぁ,といまごろになって思う。

 伯父と父とは年子だったから,一つ違い。だからというわけでもないのだが,瑞雄さんとわたしの長兄が一つ違い,以下,二人の兄弟ともにそろって一つ違い。下の妹たちも一つ違い。だから絶妙なバランスのもとで,みんなで仲良く遊んだ。いがみ合ったり,喧嘩したり,ということはまったく記憶にない。たぶん,瑞雄さんがうまく取り仕切ってくれていたのだろうと思う。そういう裁量のある人だった。ユーモアがあって,みんなを笑わせてくれたので,みんなから好かれていた。それでいて勉強がよくできる人だと聞いていた。だから,みんなが頼りにしていた。瑞雄さんがこう言っていたよ,というとみんな素直にそれに従った。ありがたい存在だった。

 遊びといっても,物資にこと欠く時代だったので,全部,自分たちで工夫した。つまり,お金のかからない遊びばかりだ。たとえば,釣りを筆頭に,めじろ取り,魚すくい,かぶと虫さがし,蝉とり,とんぼ取り,水遊び,等々。みんな自然を相手にした遊びばかりだった。だから,上手に遊ぶには智慧が必要だった。みんなそれぞれに面白く遊ぶための創意工夫をしていた。

 なかでも,釣りがもっとも高尚な遊びにみえた。なぜなら,釣りの極意なるものを瑞雄さんが初手から教えてくれたからだ。その教え方がまたみごとだった。まるで,マジックにかかったようにわたしは釣りに夢中になった。

 寺のすぐ裏に小さな池があったので,ここで手ほどきを受けた。まずは,浮きの動きをよく観察せよ,と。浮きはつねに微妙に動く,その動きによって,魚がえさに接近していることを察知せよ,と。それによって,魚が大物か小物かがわかる,と言って,いま目の前にある浮きをみながら解説をしてくれる。この動きは小物,なかなか食いつかない,浮きがゆらりと動いたときは大物,だから,ひといきで食いつく。すぐに,竿を挙げられるように身構えよ。という具合である。

 えさのつけ方,針の大きさは狙う獲物によって全部違う。その微妙な違いまで,ちくいち,なにからなにまで教えてくれた。まるで生き字引のように。

 同時に釣りの心得も。糸を投げて竿を固定したら,じっと動くな。ひたすら,浮きを見つめること。そして,なにも考えるな。無心になれ。そうしないと,魚は近づいてはこない。池のまわりにある木や竹藪と同じようにじっとしていろ。つまり,まわりの景色と一体化しろ,という。不思議なことを言う人だなぁ,と小学校3年生は思っていた。いまにして思えば,すでに,坐禅の心得を説いて聞かせていたのだ。釣りは坐禅への第一歩だった。

 言われたとおり,じっと浮きを見つめてみる。なるほど,少しも動かないものだと思っていた浮きは,つねに,微妙に動いている。もちろん,ほんのちょっとした風が吹いても動く。しかし,そのうちに風で動くのか,水中の魚の接近で動くのか,その違いもわかるようになる。そして,浮きの動きにあるきわだった変化が起きた瞬間に糸を挙げることもおぼえた。そして,いつのまにかまわりの自然と一体化することもわかってきたような気がした。ここちよかったことを記憶している。

 「マサ君は才能がありそうだなぁ」と褒められたから,もう,たまらない。天にも昇る気持ちで,翌日から,せっせと煉り餌をつくり,池に通った。とうとう,母親から「ほどほどにしろ」と叱られたこともある。瑞雄さんに相談したら,「そう,毎日よりも,ときおり間を空けて,距離をおいて考えることも大事だよ」とのこと。ここでも優等生の指導。

 とまあ,こんな思い出をつぎからつぎへとたどっていた。

 長じてからは,落語を聞かせてくれたり,歌舞伎役者のものまねを聞かせてくれたり(これがまた天下一品だった),絵が上手だということを知ったり,つぎつぎに瑞雄さんの新しい側面を知ることになった。もっとも鮮烈な記憶に残っているのは,瑞雄さんの毛筆の文字の冴え具合だ。
 
 父のところにきた年賀状の宛て名書きをみて,わたしは「アッ」と息をのんだ。こんな書の達人だったのか,と。切れ味鋭く,のびやかで,寸分のすきもない字配りに,わたしは眼を奪われた。そして,ひそかに「稲垣」という名字の崩し字を脳裏に焼き付けておいて,それを手本に必死で真似た。そして,ほとんどそっくりに書けるようになったころ,わたしも瑞雄さん宛てに年賀状を書いた。すると,こんどはまったく別の崩し字で「稲垣」と書いてあった。こういう崩しもあるのか,とこれも驚いた。もちろん,それもすぐに真似た。わたしがつぎつぎに真似るので,たぶん,瑞雄さんはそのヴァリエーションを増やしていったのではないか,と勝手に想像している。いつか,このことをご本人に確かめてみたいと思っていた。晩年は,たぶん,わざと筆の毛のさきの部分を丸く切り揃えて,上手そうにみえないように,ちょっと抑え気味に宛て名を書いていたのではないか,とこれまた想像していた。その字は,もはや,わたしの真似のできない書の風格をもっていた。これには参った。書を上手にみせる書き方は練習すれば,かなりのところまでは上達する。しかし,下手そうにみえて味のある書は努力して書けるものではない。良寛さんの書のように。

 こんなことを考えながら,なんと天分に恵まれた人だったのだろか,と羨ましくも思う。そんななかで作家への道を選んだのだ。それも真っ正面から対象を見据え,透徹したまなざしと思考回路をとおして,熟慮の末に独特の小説世界を切り開く,真っ向勝負の小説だった。処女作『残り鮎』を送ってもらったときの感動はいまも鮮烈である。詩の世界は,わたしには荷が重すぎた。ときおり,はっとさせられることもあったが,その多くはわたしの手のとどかない別世界だった。

 おそらくは,どの芸の道を選んでも一流になれる人だったに違いない。人を惹きつける話術にも卓越していた。こんな多芸多才な先生に教えてもらった立川高校の生徒さんたちはなんと幸せなことだったことか。
 
 こんなことを書きはじめたら際限がない。しばらくは,わたしのなかの瑞雄さんの思い出を反芻しながら,送っていただいた作品の数々を読み返してみたい。もっと違ったなにかが透けてみえてくるような予感もある。もっと接触してお話を聞いておくべきだった,と臍を噛みながら。ご冥福を祈りたい。



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