2013年5月1日水曜日

「日本」という名辞が国名となったのはいつか?岡田英弘著『日本史の誕生』(ちくま文庫,2012年,第6刷)再読。

  「中国」という名辞の国は存在したことがない,というN教授の講義を聞いて,一瞬,ポカンとしてしまいましたが,そのあとの説明を聞いてなるほどと納得。わたしたちは「中国」という名辞について,なんの疑問もいだくことなく,そういう名の国家がずっとむかしから存在していた,と思い込んでいます。しかし,よくよく考えてみれば,なるほど,日本語の「中国」といい,英語の「China」といい,こんにちの正式国名である「中華人民共和国」(Zhonghua Renmin Gongheguo)のことを思い浮かべるだけで,「中国」が不思議な名辞であることがわかってきます。(ちなみに,Chinaは秦王朝の秦の転訛したもので,日本では「支那」と表記され,江戸の中頃から第二次世界大戦まで用いられた,と辞典に書いてあります。戦後は「支那」の表記を避けて,多くは「シナ」と書く,とのことです。)

 こんなことを考えていたら,では,「日本」という表記は,厳密にはいつからなされるようになったのか,ということが気がかりになってきました。そういえば,以前,読んだことのある岡田英弘さんの『日本史の誕生』(ちくま文庫,2012年,第6刷)のなかに「日本誕生」という章(第八章)があったなぁ,ということを思い出しました。

 岡田英弘さんには『世界史の誕生』という名著もあって,ユーラシア大陸を中心とする世界史の構想が,ひところ大いに話題になりました。岡田さん自身はモンゴルの歴史の専門家と聞いていますが,当然のことながら,中国の古代史にも精通しておられます。その岡田さんが『日本史の誕生』という著作を書かれたのは,すでに,20年も前のことです(初版は1994年,弓立社)。

 その特徴をひとことで言うとすれば,日本の古代史を,中国サイドの文献から読み解く,という手法にあります。ですから,日本史の専門家がこれまで説いてきた知の地平とはまるで異なる世界がひろがってきます。それは,まるで眼からうろこが落ちる思いをする経験でもあります。

 このテクストや著者についてのクリティークはとても面白いのですが,そんな余裕はありませんので,ここでは省略することにします。そして,いきなり,このテクストのなかで述べられている「日本誕生」の結論部分をとりだしてきて考えてみたいと思います。

 まずは,その部分を引用してみましょう(P.240.)
 「天智天皇は,ただちに日本列島防衛のための統一事業に着手した。都を近江の大津に移し,成文法典『近江律令』を制定した。その中で,倭王は今後,外国に対しては「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」と自称することを規定した。
 これが「日本」という国号と「天皇」という王号の起源である。
 日本列島内の諸国はそれぞれ自発的に解体して,旧倭国と合同し,新たに日本国を形成することになった。
 こうして天智天皇は,668年に大津の京で即位して,最初の日本天皇となった。これが日本の誕生であった。
 翌々年670年には,初めて戸籍を作り,671年には太政大臣・左大臣・右大臣・御史大夫(ぎょしたいふ)以下の中央政府の官職を任命し,『近江律令』を施行した。
 670年に新羅に派遣された阿曇連頬垂(あずみのむらじつらたり)は,外国に対して日本国を名乗った最初の使節である。」

 この結論に到達するまでの前説が懇切丁寧に記述されていますので,ここまで読み進めてきた者からしてみれば,まことに簡潔にして要を得た結論に感動すらおぼえるほどです。初めてこの文章を読む人にとっても,それほどの違和感はないのではないかと思います。が,ほんの少しだけ補足の説明を加えておきますと以下のとおりです。

 引用文の冒頭にでてきます「日本列島防衛のための統一事業に着手した」という文章の中味はきわめて重要です。天智天皇は,長い間の百済との同盟を守って,百済と新羅の戦いに援軍を送り出します。が,あの「白村江の戦い」で,新羅の援軍であった唐の艦隊に破れ,全滅します。作戦は完全に失敗に帰し,倭人たちは韓半島から締め出されてしまいます。が,そればかりではありません。場合によっては,戦勝の勢いに乗って,唐・新羅の連合軍が倭国に攻め込んでくるのではないか,と多くの人びとが恐れたに違いありません。ですから,天智天皇は,大和盆地から,さらに奥の近江に引っ込み,まずは,わが身の安全を確保します。

 天智天皇が,なぜ,都を近江に移したのか,というこれ以上にわかりやすい説明をこれまで読んだり,聞いたりしたことは,残念ながらわたしにはありませんでした。大和盆地こそ守りのための自然の城砦をなしている,だから,瀬戸内海に面している難波から,さらに奥の大和盆地に都を移した,という説明をどこかで聞いたとき,とても納得した覚えがあります。が,都が近江に移った理由は,わたしには不明でした。これで,ひとつ問題解決です。

 かくして,天智天皇にいたって,いよいよ唐・新羅連合軍の襲来の可能性が高まってきます。ですから,日本列島全体を視野に入れた「防衛」という統一事業が不可欠となってきます。天智天皇がそういう「外圧」によって,統一国家をめざすのも必然であった,ということになります。そのとき,初めて諸国を統一する国家としての名辞が必要になり,「日本」を名乗ることになります。「日出ずる国の天子より,日没する国の天子へ」という聖徳太子が書き送ったとされる書簡は,じつは,天智天皇が書いたのだという説も登場しています(「聖徳太子」不在説を主張する人びと)。

 ついでに触れておけば,『日本書紀』が天智天皇の弟と言われている天武天皇によって発令されたのも,こういう「日本」誕生の背景と無縁ではありません。国家のアイデンティティを明確にし,その根拠を知らしめることが,やはり,この時代にあっては不可欠であったからです。

 思いがけず長くなってしまいました。
 以上,N教授が,名辞を疑うこと,そして,考えることの重要性を主張されたことを,わたしなりに実践してみたという次第です。そして,とうとう日本古代の「謎」解きというとんでもなく魅力的な世界に踏み込むことになり,その核心に触れることにもなってきました。やはり,「思考停止」をしてはいけない,としみじみ思いました。

 というところで今日はここまで。

3 件のコメント:

柴田晴廣 さんのコメント...

 「『日本書紀』が天智天皇の弟の天武天皇によって発令された」、これも「「中国」という名辞の国は存在したことがない」のと同様に、「一度,疑ってみる必要がある」と思います。

Unknown さんのコメント...

ご指摘,ごもっとも,と思いましたので「と言われている」と修正しました。天智と天武の関係こそ,この時代の謎を解くための大きな鍵だとわたしも考えています。ありがとうございました。

柴田晴廣 さんのコメント...

 私は、兄弟関係以上に『日本書紀』が天武によって発令されたという点も、「一度,疑ってみる必要がある」と考えています。
 少なくとも著述は持統の時代になってからですし、この点は、小川清彦さんの『日本書紀の暦日について」や森博達さんの『日本書紀の謎を解く』で詳しく説明されています。