2013年7月11日木曜日

辺見庸の最新作『青い花』(角川書店)を読む。文明批評てんこ盛りの「現代の黙示録」。感動。傑作。必読。

 フクシマの汚染水が地下水のみならず海洋にも拡散しはじめているらしいという,なかば予期された,しかし,そうあっては欲しくない最悪の事態が昨日・今日とメディアを賑わしている。しかも,打つべき手はなにもない,という。ただ,傍観するのみ・・・・。この無力感・・・・。

 作家辺見庸の直感力は,このことを充分に予期した上で,さらに,大震災が何回もくり返され,ついには戦争まではじまり,人びとが路頭に迷う,恐るべき近未来の世界を「黙示録」のようにして描き出す。大津波による流木や死体がごちゃ混ぜになってあたり一面に放置されたままの世界にあって,妻も子どもも両親も犬も友達もみんないなくなり,自分の存在がかぎりなく希薄化していくことを感じとりながら,ただ,わけもなく線路の上を「あるく」。これといった目的もなく,ただ,ぶらぶらと「あるく」。この世とあの世の境目も分別できない世界を浮遊物のように漂いつつ「あるく」。そして,あてもなく「あるき」つづける主人公の無意識の底を流れているものは,多幸剤「ポラノン」がほしい,ただ,その一念のみ。つまり,ただ「あるく」だけの存在でしかなくなってしまった「いま」もなお,高濃度の放射線を浴びながら,生死の境をさまよいつつも,人間の最後の欲望は「くすり」しかない,と言わぬばかりに。

 まるで,こんにちの日本人が,科学神話を盲信し,みずからの健康の保持増進をサプリメントに依存してこと足れりとする究極の姿,それは「薬物依存症」なのだ,と言わぬばかりに。この「狂気」が圧倒的多数を占めると,それが「正気」となり,薬物を拒否する人間が「狂気」のレッテルを張られてしまう。

 こういう階層秩序的二項対立(J.デリダ)の無意味・無根拠を,辺見はつぎつぎに具体的な挿話を繰り出して,証明していく。その挿話に恐るべき説得力がある。人間を丸裸にして,裏も表も,内側も外側もない,あるがままの人間に光を当てる。こういう話がつぎからつぎへと,意識も朦朧としたまま線路を「あるき」つづけるしかない主人公の記憶をたぐりよせるようにして,読者の前に突きつけてくる。

 たとえば,主人公を子どものころから可愛がってくれた叔父さんは,みずから「おれはキチガ〇だ」とだれはばからず公言し,実際にも近くの精神病院に入院して療養していたときの話がある。この話は,この小説のコンセプトを構築する重要な要素となっている。それは,療養中の叔父さんがみずから戯曲を書き,それを患者や医師,介護士,事務職などの人びとが配役となって演ずる話である。この演劇を病院の近所の人や患者の縁故の人たちにみてもらう。主人公も叔父さんの縁故でこの演劇をみる。終ってから,主人公は叔父さんと話をして驚く。主人公が,この役を演じている人は患者に違いない,そして,この役を演じている人は医師だろう,と予想していたことが,ことごとく裏切られていく。つまり,演劇で配役を決めて芝居をはじめると,「狂気」と「正気」の区別がつかなくなってしまう,というのだ。それどころか,ふだん「正気」を演じている人が,芝居で「正気」を演ずると「狂気」が露呈してしまうのだ,という。とりわけ,医師は演劇のなかでは,みんな「患者」にみえてしまう,という。この逆転現象はいったいなにか。

 日常生活で,無意識の世界でうごめいている気持ちをそのままことばや行動に移すと,その人は「狂気」と判定され,その無意識の世界でうごめいている気持ちを理性的にコントロールして,ことばを選び,慎重に行動する人が「正気」とされる。しかし,この「正気」は平和な日常性の中では機能しても,一端急を告げるような事態に陥ると,みんな丸裸の,素の人間に戻されてしまう。そこでは,「正気」の人は「狂気」となり,「狂気」の人は「狂気」のままだ。いったい,このことはなにを意味しているのか。

 小説なのに,こんなにひっきりなしに線を引かずにはおかない本も珍しい。前半はともかくも,後半に入ると,どこもかしこも線だらけ。何回も何回も立ち止まっては考え込み,そのつど書き込みもしてしまう。ときには,涙しながら読む。わたしのからだ(ん?こころか)の奥座敷のなかにまで,どんどん,なんの遠慮会釈もなしに入り込んでくる,この辺見庸の人間洞察力とその文体に圧倒されてしまう。んだ。こんな体験は初めてのことだ。なにゆえにこんなことが起きるのか。それには理由がある。その鍵を握っているのはジョルジュ・バタイユの思想。

 どうも,わたしがわかったような顔をして解説を書いているより,この作品のどこでもいい,みなさんに読んでもらった方が話が早い。なので,その一部を紹介してこのブログを閉じることにする。いずれにしても,恐るべき作品が世にでてきたものだ。でも,いったい,だれが,どのようにこの作品を「評論」するのか,そちらの楽しみもある。

 以下は,辺見庸の『青い花』からの引用である(P.161~163.)

 ・・・・・もとい。起立。礼。天皇陛下の赤子(せきし)たちは,カックン超特急にみんなで乗らせていただき璽(なんじ)臣民,其れ克(よ)く朕が意を体せよ,と朕さんかおっしゃるものだから,コクタイをゴジさせていただき,さんざがんばってはたらいて学校でガリ勉し,シャブばんばんうって労働もセックスもしまくり,戦中そろいもそろってあっさり思想転向したはずの共産党員も詩人も作家も記者も編集者も,戦後は口をぬぐって,民主主義万々歳やて。見あげたもんだよ屋根屋のフンドシ。そのていどのミンシュシュギやってん。朝鮮戦争にろくに反対もせず,戦争特需で大もうけし,戦争の苦しみをわすれ,浮かれ,かつ虚脱し,いちじは三百万人以上の潜在ヒロポン常用者がいたこと,すさまじい苦しみにのたうちまわっていたこと,一九五三年の医薬品総生産高は約七百五十六億円だったけれども,ヒロポンなど覚醒剤の売り上げは同年,一説に二百数十億円だったこと,ヒロポン生産に抗議した製薬会社のまじめな労働者たちが生産妨害者として解雇されたこと,理のとうぜん,精神科病院が超満員だったことを,セニョール,セニョール,ご存知ないのでありましょうか。と,叔父はあの芝居で表現したかったのではないだろう,とわたしはおもう。叔父はだれかを告発したかったのではないはずだ。叔父はそんなひとではない。麻薬撲滅をうったえたかったのでもなかろう。わたしはあえぎながらあるく。くらいカナルをあるく。もう,夜なのに・・・。きょうこのカナル,アナル,ナアル,エイナル,null・・・。狂気とはなにか。正気とはなにか。叔父は狂気というものの内的恒常性,正気の本質的虚妄をかんがえていたのではないだろうか。精神の下地には正気ではなく,狂気の海原がある。津波のような狂気の海原──それがこころの内層である。溺死体。「崩れ落ちた鼻の穴が太陽に向かっていびきをかく」のだ。狂気は凪ぐとまるで正気に見えてしまう。ヒロポン以前の狂気と正気。叔父はだれも告発しなかった。三重吉さんも,本橋先生も,きょうこも,ブタと性交した男も,だれひとり告発しなかった。だれのせいにもしなかった。だれのせいでもない。わたしはよろよろあるいている。

※わたしのワープロ変換技術の未熟さにより,一部,漢字をひらがなに,漢字を同義のもので代替したことをお断りしておきます。

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