2013年7月9日火曜日

原発再稼働はありえない。なのに5原発10基再稼働申請(プラス2原発も近々)。

 東電社長と新潟県知事の交渉の一部がテレビで流れ,みていてものの哀れを感じてしまった。いわゆる他流試合となると,東電社長という人間の器の小ささばかりが目立ち,新潟県知事の怒りをにこやかな笑顔で抑え込んだ人間の大きさが,強烈な印象となって残った。いわゆる既得権益者集団のなかで立身出世してきた人間は,なるほど右を見,左を見,上を,下を見ながらみずからの才覚で身の振り方を考え抜いてきた「優等生」には違いないだろう。しかし,既得権益集団の一歩外にでて,他流試合となると,相手の度量の大きさに飲まれてしまって,とたんに顔は凍りついてしまう。とても,とても相手を説得するなどという気魄もなにもない。ただ,伝えるだけ。説得とはほど遠い。

 ということは,同情したくなる点もないわけではない。なぜなら,自分たちの主張を相手側が飲んでくれるということは,最初から不可能だと承知しているからだろう。なぜなら,みずからの言い分が,既得権益集団(=原子力ムラ)の中では「常識」であるが,一歩外にでたら「常識はずれ」であるということがわかっているからだ。

 ということは,世間の「常識」は既得権益集団にとっては「非常識」,既得権益集団の「常識」は世間の「非常識」,ということだ。このギャップを埋める努力もしないで,原発再稼働ありきで突き進もうとする。なぜなら,政府自民党が後押しをしてくれるから。いまの自民党人気に乗っかれば押し切れる,という甘い判断がみえみえだ。だが,あれほど元気のいいふりをみせている安倍首相は,この「再稼働」の問題については「沈黙」を守っている。なぜ?票の増加につながらないからだ。だから,原発に関してはなんとか蓋をして「経済一本」で押し切ろうという作戦にでる。

 しかし,原発再稼働に踏み切ると最終的に日本の経済は破綻をきたすことはだれの目にも明らかだ。使用済み核燃料をとのようにして最終処理を行うのか,その方法すらまだみつかってはいない。一説によれば「不可能」だ,と専門家たちはいう。だとしたら,半永久的にこの使用済み核燃料の子守を子々孫々にいたるまで引き受けなくてはならない。この費用はだれが負担するのか。そこまで計算して「採算」を考えているのか。だとしたら,原発は「安上がり」だという根拠をもっと明確に提示してほしい。わたしたちが知らされている「採算」の積算の基礎は「単位時間」当たりのコストの比較でしかない。それは違うだろう。

 原発再稼働しか考えない政府自民党と,いちはやく原発廃止を決めたドイツ政府とでは,その思考回路が真反対だ。日本国政府は一度,手にした既得権を手放そうとはしない。権力の中枢にいる人びとが寄ってたかって既得権益を守ろうとする。多くの国民を犠牲にしてでも,わが身の保身のために盲目的に突き進む。ドイツ政府は「国民」にとって原発エネルギーと再生可能エネルギーのどちらが「幸せ」につながるかを熟慮した上で,再生可能エネルギーを選択した。国民の圧倒的多数がこれを支持し,政府と国民とが一丸となって再生可能エネルギーを確保するために,ありとあらゆる智慧を出し合って,その実現に向けて邁進している。しかも,それが驚くべき早さで進んでいて,近く「電力輸出国」になるという。

 やればできる。ドイツにできることが,なぜ,日本ではできないのか。その最大のネックになっているものが既得権益集団である。政・官・財・学・報の「五位一体」となったこの既得権益集団(またの名を「原子力ムラ」という。そういえば,近頃,この「原子力ムラ」ということばが消えつつある。なぜか。どこかから圧力がかかったことは間違いない)が,いまや,日本の中枢を占め,一致団結して国を動かそうとしているからにほかならない。この集団に対して日本国民は甘い。上意下達,寄らば大樹の陰,という江戸時代からの悪しき慣習行動が,いまも生きている。情けないことこの上ないが,その甘えの構造は間違いなく存在している。

 ドイツ国民には,自分たちが国を動かしているという自覚と自負がある。賢明なるドイツ国民は「フクシマ」を教訓にして,脱原発を「即決」した。そのときの決断の最大の根拠は「人の命」を最優先するという考え方である。そして,そのことのためなら国民は一致団結して行動を起こす。それには立派な実績ももっている。

 たとえば,西ドイツ時代(1960年代)の「ゴールデン・プラン」がある。国民の多くが過食・運動不足のために肥満体となり,成人病が多発した。そのため労働力の低下,医療費の増大,など連鎖的に国力の低下をもたらすという結果にいたる。その対策として考えられたのが「運動の促進」「健康の保持増進」運動であり,そのための「施設づくり」であった。国民一人あたりの運動施設面積を割り出し,それを実現しようという遠大な計画であった。そして,そのための金を国が半分,あとの半分は国民が負担する,ということを決めて,国民は募金運動を展開した。

 ところがである。目標としていた募金が,期限前に倍以上も集まってしまった。そこで,急遽,「ゴールデン・プラン」をさらに大きな規模に練り直すことになった。そうして,さらに「10年計画」を立て,「第二次ゴールデン・プラン」を実行に移していった,という実績をもっている。それが,こんにち,ドイツのどこに行っても見られる立派なスポーツ施設だ。

 日本でも,ひところ,各地方自治体が中心になって「ゴールデン・プラン」の日本版をめざしたが,さしたる成果はあがらなかった。なぜなら,市民が「募金」に応じなかったからだ。笛吹けども踊らず。こういう箱ものは国や自治体がやるものであって,国民・市民はそれをありがたく頂戴する,という受け身の姿勢から抜け出ていない。残念ながら,江戸時代からの慣習行動から,いまも抜けきれていないのだ。

 しかし,いつまでもそんなことではいけない。スポーツ施設ができなくてもいい,橋が架からなくてもいい。しかし,国民の「命」にかかわる原発だけはなんとしても回避しなくてはならない。このことに関しては,若いお母さんたちはみんなわかっている。そして,若い世代の人びとも関心は高い。なぜなら,まだまだ,未来に向けて「生きて」いかなくてはならないからだ。

 一番,鈍感なのは,既得権益に身をすり寄せることによって甘い汁を吸うことを覚えてしまった世代から上の世代だ。困ったことに,こういう世代が国の中枢を占めている。この人たちに目覚めてもらうしかない。

 こんどの参院選は,この原発問題だけは自分の選挙行動の起点においてほしい。つまり,選挙の「争点」から外してはならない。その意味で,日本の未来を決する重大な選挙だ。慎重に,慎重に。そして,一大決心を。

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