2013年7月30日火曜日

富士山に登山鉄道だってェーッ?! 

 富士山が世界文化遺産に決まったことを契機にして,またまた,一儲けしようという輩が動きはじめているという。なんでもかんでも儲かればいいというホモ・エコノミクス族の考えそうなことではある。その情報によれば,この登山鉄道をJRにつなげて,成田空港と直結して,外国人観光客をストレートに富士山に呼び込もうというのである。いやはや,儲かればいいという人たちの考えることは,わたしのような小国民とはケタが違う。そんなことをしたら,富士山が富士山ではなくなってしまう,などとは考えない。それよりも世界中の人が一人でも多く富士山にやってきて,日本にカネを落していってくれればそれでいい,ということらしい。

 ここまで書きながら,「それはもはや柔道ではない」という名セリフを思い出している。つまり,柔道がグローバル化した結果,世界に広まり,柔道人口が桁外れに多くなった。そのこと自体はまことに結構と歓迎され,日本もまた柔道の世界的普及のために力を注いだ。そして,オリンピック競技種目となり,世界選手権大会まで開かれるようになる。が,気がついてみると,「それはもはや柔道ではない」という結果を招来してしまうことになった。

 この謂いにならえば,「それはもはや富士山ではない」というときがやってくるのは明々白々である。苦労して富士山の頂上に立ってみたら,そこにいる人たちの顔のほとんどが外国人であった,ということもありえないことではない。ひょっとしたら,富士山の頂上が「外国」になってしまうこともありえないことではない。となると,霊峰富士は異教徒のマナーに占領されてしまう,ということだってありえないことではない。

 富士山の頂上に立つ,ということはわたしたち日本人にとっては,いわゆるふつうの山の頂上に立つこととはまったく異質のものだ。いまでは,もはや,信仰登山を意識して富士山に登るというような人はごくまれでしかないだろう。そんなことはまったく意識していなくても,無意識の底のどこかには霊峰富士という意識が生きているように思う。しかし,富士山に登る人の意識は,ほかの北岳や仙丈ヶ岳に登るのとほとんど変わらないだろうとおもう。それでも,こころの底のどこかには「富士山」という特別の意識があるようにおもう。それは,やはり,つきつめていけば,霊峰富士というところにゆきつく。

 富士山が世界文化遺産に指定されたとき,わたしは,なぜ,世界自然遺産ではないのか,とつよい疑問をいだいた。しかし,いろいろの情報を集めてみると,日本人はむかしから富士山を信仰の対象として仰ぎみ,みそぎをし,白装束に身を固めて登山する,という長年の慣習行動が高く評価された結果だと知った。しかし,いまでも,富士山の麓でみそぎをし,白装束で登山をする人がいるにはいるが,ごく少数にすぎない。このことはだれもが知っていることだ。にもかかわらず,富士山は他の山々とは別格であり,こころのどこかに「祈り」のようなものを抱いてしまうのはわたしだけであろうか。

 もちろん,穂高岳に登る人たちのなかには,穂高神社のご神体に「登らせていただく」という意識をはっきりともつ人もいることは間違いない。しかし,そういう人たちは,穂高神社の氏子さんか,あるいは,穂高にまつわる伝承に共鳴する人たちに限られるだろう。だから,数からしたら,ほんのごく少数にすぎない。しかし,穂高岳に登山鉄道を敷設するなどというプランが立ち上がったら,この人たちは黙ってはいないだろう。そして,それこそからだを張って,反対の意思表明をするだろう。なぜなら,自分たちの信仰の拠り所が,不特定多数によって独占されてしまうからだ。それは,耐えられないことだろう,とわたしはおもう。

 このことは富士山とて同じであろう。しかし,残念ながら,わたしは富士信仰の実態をほとんど知らない。コノハナサクヤヒメを祀る浅間神社のご神体が富士山である,という程度のことしか知らない。だから,どのような信仰形態がこんにちにも伝承されているのか知らない。つまり,具体的な信仰の形態はなにも知らないのに,わたしたちのこころのどこかに富士山を特別視する,不思議なものがあることは間違いない。

 さて,そこに登山鉄道を敷設する案が持ち上がっているというのだから,ことは単純ではない。この計画の詳しいことについては,http://www.nikkei.com/でご確認ください。この情報によると,富士山に登山鉄道やケーブルカーや地下ケーブルカーを敷設するプランは過去にも何回ももちあがり,そのつど,それぞれの理由があって実現にはいたらなかったという。その情報もじつに面白いのだが,今回は,割愛。さらに詳しく知りたい方は,村串仁三郎著『国立公園成立史の研究』(法政大学出版局)をご覧ください。

 ところで,今回の登山鉄道敷設計画は,はたして成功するのだろうか,とわたしは少なからず関心をもっている。なぜなら,あらゆるもの(人間の身体までも)が金融化されていく時代にあって,とうとう富士山までもが資本の論理に絡め捕られ,金融化していくのか,となかば呆れ果てて眺めている。と言いつつも,はたまた,ほとんど死んだも同然の富士登山の信仰が息を吹き返すのか,その行方にひとかたならぬ興味・関心をいだいている。

 結論を言っておけば,日本人としての「根をもつこと」(シモーヌ・ヴェイユ)が問われている,と。すなわち,わたし日本人とっての「根」をもつことのひとつは,霊峰富士を共有することではないか,と。だから,富士山を可能なかぎり自然状態のままで維持・保存し,そこはかとなくこころの拠り所として大事にしておきたい,と考える。この点については,じつは,相当に詳しくそのロジックを明らかにしておかなければならないだろうとおもう。いずれ,機会をみつけて,とことん論じてみたいとおもう。が,今回は,ここまでとする。

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